「壬申の乱」で、大海人皇子に敗れた大友皇子。
1017年8月、現地を探しましたが、見つかりませんでした。
公民館が神明社の隣に移転新築されたときに、この標柱も移転したようです。
●大友皇子丸藪之館跡住所:愛知県岡崎市東大友町字稲葉大友皇子伝説 672年7月23日、天智天皇の子大友皇子は壬申の乱で天皇の弟大海人皇子と争って敗れ、山前(やまさき)で自害ました。
この地は特定されていませんが、当時の都があった大津からそんなに遠くないところだと思います。
大友皇子の首は将軍村国連男依らによって大海人皇子のもとへ運ばれ、首実検されます。
そして、後に自害峰と呼ばれる3本杉の下に埋められました。
このことから自害峰が大友皇子の御陵候補地ともなりました。
大友皇子の御陵候補地は、茶臼山古墳(大津市秋葉台)や御霊神社(大津市鳥居川)を含めて大津市内にも3か所ありました。
大友皇子が実際に即位したかは不明ですが、明治3年弘文天皇とおくり名され、最終的には明治10年に大津市御陵町にある園城寺境内の亀岡古墳が認定されて「弘文天皇長等山前陵」とされました。
以上が通説となっていますが、この地の伝承として実は大友皇子は自害しておらず、首実検されたものは身代わりとなった者の首で、蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに愛知県あるいは千葉県まで逃げ延びたというのです。
滋賀県大津を脱出してから愛知県や千葉県までの道は諸説あるようです。
「東大友公民館」の前には、この地が大友皇子が隠れ住んだ屋敷の跡との伝承から石碑が建っています。
名前 |
大友皇子丸藪之館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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「壬申の乱」で、大海人皇子に敗れた大友皇子。
その伝説が息づく名所です。