階段を下って本殿に行くのはとても珍しい。
八幡宮(土呂八幡宮) / / / .
境内は思いの外広く、江戸時代後期の瓦葺の拝殿と、江戸時代初期の本殿があります。
本殿は重要文化財です。
土呂(とろ)というのは、この辺りの古い地名だそうです。
神社のかたに、「泥棒」の「泥」は「土呂」に由来する説もあると教えていただきました。
門前近くに駐車場があります。
檜皮葺の屋根を持つ本殿は国の重要文化財、阿弥陀如来は県の重要文化財に指定されている。
由緒有る神社、三河一向一揆の際に戦災を被り縁起、社歴は焼失。
拝殿の前には大きな枝垂れ桜が有りました。
拝殿から見て左側に八重桜の左近の桜が満開でした。
上地八幡宮に行く途中に有り寄らせて頂きましたが、思いがけず由緒有る神社を訪れる事が出来ました。
来年枝垂れ桜の咲く頃に又訪れたいと思います。
土呂八幡宮の本殿は国の重要文化財、木造阿弥陀如来坐像は県指定文化財になっています。
この辺りは土呂御坊としてとても栄え、また三河一向一揆の拠点であった場所として有名です。
家康との戦いにおいて、最終的には兵火に遭い火の中に消えていきました。
その後、家康の命により石川数正により土呂城が立てられ、平定に努め、城下町として発展したと言われています。
(御堂山に本丸で御坊山に二の丸があったと伝えられます。
)また、数正が八幡宮の社殿を造営し、鏡二面を奉納したと伝わります。
今では戦火の面影もなく、唯一境内竹藪奥に建てられた家康の家臣と伝えられる一揆側について戦って亡くなった海月左五介の塚があるくらいでしょうか?ただ、近くには一向一揆の時の戦死者を埋めたという骨塚もあるそうで、そのあたりを掘ると今でも人骨が出るといいます。
ちなみに泥棒の語源も一揆衆が戦費食糧調達のため盗みを働いたことから、彼らを土呂坊と呼び、それが泥棒に転じたとも教えてくださいました。
上記宮司さんなどからお聞きしました。
(また一部写真撮影禁止場所での撮影も許可してくださいました。
網戸越しですが(汗))以下土呂八幡宮HPより引用「御祭神」応神天皇(おうじんてんのう)(第15代)(誉田別尊(ほむたわけのみこと))天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)白山姫命(しらやまひめのみこと)伊雑大神(いざわのおおかみ)罔象女命(みずはのめのみこと)「御由緒」当社創立の由来を伝えるに、永禄7年(1564年)3月一向宗騒乱(三河一向一揆)の際、戦火を被り縁起、社歴等は焼失し詳細を知る由なきも、残存している遺物文献によれば、遠く奈良朝の末年か平安朝の初期と思われます。
永禄の頃までは、随神門が有り、また神宮寺も建立しており、付近一帯の鎮守産土神として尊敬厚き総社でした。
応仁元年(1467年)正月、真宗本願寺八代目蓮如上人が当地に来て、神宮寺の側に寺(土呂御坊本宗寺又は善秀寺)を建立し、三河門徒の拠点地となる。
かくして浄土真宗隆昌し、僧兵を置いて勢力を振るう。
是により神宮寺はもちろん、当社の社運日に月に衰微してしまいました。
然るに、永禄6年(1563年)一向宗の騒乱蜂起し、翌7年徳川家康に攻められ本宗寺滅亡したので、家康の家臣石川数正が乱後の平定に努めると同時に八幡宮の社殿を造営し、鏡二面を奉納すると伝わります。
元亀年中(1570年~1572年)に至り、神宮寺は退廃はなはだしく再興の余地なく本尊佛のみ修理し、当社の拝殿に安置し、寺門廃滅にいたりました。
元和2年(1616年)幕府代官畔柳寿学が当所を支配するに当たり、寿学社参して本殿拝殿等の再建を命じ、同5年9月落成しました。
由緒ある神社のようで本殿は国の重要文化財に指定されています。
神職の方は見当たりませんでしたが、宮司さんはすぐ近くに住んでいるらしく電話番号と自宅までの略図が書いてありました。
名前 |
八幡宮(土呂八幡宮) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0564-51-9607 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
鳥居をくぐり抜けて、拝殿や本殿は階段を降りるなんて珍しいのでは!へぇー!仲は少し広めなんですね!