114m、高さ10mの前方後円墳。
駐車場無さすぎ。
福島県、否東北地方を代表する大古墳であるが、現時点では発掘した時期が古すぎてしまい、新たな現在技術で発掘しなおさなければならない時期に来ている。
特に、通常は最も古い会津大塚山1号墳に対して後世の群集墳が1号墳上に築造されるなどということは他の古墳群ではありえないことである。
通常は1号墳の存在に敬意を表する?形で1号墳の周辺に群集墳が築造される。
発掘れていないので何とも判然としないが、1号墳上に築造されたとされている7号墳、8号墳、9号墳はともに雪崩を打ったように北西方向に築造?されている。
これは古墳群の常識としてはありえないことである。
また、後円部南側には周濠が見られるとされてはいるが、会津大塚山1号墳は中期古墳ではなく、大塚山丘陵を利用して築造されていることを考慮すれば中期古墳的な周濠があったとすると、周濠は墳丘を完全に取り巻くことができない。
周濠は西側の谷に落ちてしまい、墳丘を支えることができなくなってしまうからだ。
このように古い発掘で止まっている本古墳群について疑問を解消して新たな知見を得るためには赤色レーザーによる3Dスキャニング測量を行うか、現在の精密な技術で新たなはっくつを行うかをしなければならなくなっている。
東北地方の古墳時代の始まりを検討するためには本古墳の新たな調査をしなければならない。
特に東北地方で唯一三角縁神獣鏡が発見された1号墳については、他の古墳には見られない南側の曲輪状遺構や東側に中期古墳の造出しのような張出し遺構が見られるが、それについても戦国時代に陣城としてリサイクルされる中で改造された疑念が残る。
1号墳が築造された当初の姿はどうだったのだろうか?それは新たな調査を入れなければわからないことである。
さらに言えば、堂ケ作山古墳に始まり、会津大塚山古墳群で終わるような不動川扇状地の古墳群があるのに、同じ背炙丘陵の黒川扇状地には目立った古墳が見られないのはなぜだろうか?古墳時代の人々は不動川を選んで黒川を選ばなかったのだろうか? 黒川扇状地には後世会津若松城と呼ばれる城郭が設けられるのは(そういう中世城郭は福島県内の例を出せば郡山市の守山城の例があるけれども)、実はそこに古墳があったからではないか?(例としては守山城三の丸古墳)そう考えれば不動川扇状地だけ古墳群があることを主張するのは不自然であることがわかるのではないか?
東北の、日本の古代史の歴史観を変えた会津の大王が眠る塚です。
あらためて、思いをいたしました。
車で行くと大塚山墓地を一番上まで登ったところに車を置ける。
そこが古墳の入口となっている。
岡山から出土したのと同じ三種の神器が出土した。
鏡などの出土品は鶴ヶ城となりにある県立博物館に展示がしてある。
この古墳を訪れたのちに、県立博物館で実物を見ると感動が倍増する。
現在の調査結果では、4世紀中盤にできた古墳と考えられています。
また、副葬品として、なんと勾玉、刀、鏡の三種の神器が出てきています。
出土品は鶴ヶ城脇の県立博物館にて展示。
東北のこの地まで、それらが持って来られたことを考えると、当時よほどの実力者がここに眠ったのだと考えられます。
私は、その時代生きておりませんので、真実は存じ上げませんが、古墳跡に伺うとなるほど今のように、お家もお墓もあるはずがありませんし、素晴らしい眺望です。
右の先には磐梯山。
左の奥には、夏でも雪が残る飯豊連邦。
タイムスリップしそうな位の風景を目の当たりにすると、この場所は意味のある地なのかもしれません。
車で途中まで行けますが、道路が細い割に車の往来が激しいのでご注意を。
徒歩で頂上まで行きます。
山なので、シューズがよいです。
真っ直ぐ行く方法と回り道もありますが、獣道っぽくなっているので夏はご用心を。
💜
前方後円墳である。
未だに築造時期を確定できるような土師器や埴輪が検出されていないので時期を確定できないようである。
面白いことにここに司馬遼太郎が訪れていて、それを「街道を行く 33 白河・会津のみち、赤坂散歩」で書いている。
その部分を少し抜粋してみよう。
「ホテルのロビィで市内地図をひろげてみておどろいたのは、…有名な大塚山古墳群があることだった。
市民は四世紀後半の古墳のぬしたちとともに都市生活をしているのである。
・・市民の共同墓地もある。
」「ちょっと唐突ながら、弥生時代から古墳時代にかけての先進地帯の一つは、吉備国(岡山県)だった。
そこの丸山古墳から出た鏡と同じものが会津の大塚山古墳から出て来たという。
」面白い。
この「同型鏡」或は「同氾鏡」これらは所謂「倭製鏡」であって大和連合の意味を持つもので、大和が勢力を伸ばしていた証拠ではなかろうか。
ただ築造時期は四世紀後半ではなく中頃とされている。
会津若松の名所。
洋風近代的開放感溢れる公園墓地。
霊園の1番上にあります。
景色がとてもいいです。
114m、高さ10mの前方後円墳。
国史跡。
4世紀末の築造と推定。
二つの竹割型木棺から、同鏡、環頭太刀、靭、農耕具、装飾品など、多くの副葬品が見つかった。
調査により、この地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀以降であるという説は覆され、古墳が造営された4世紀末には既に大和王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
.....夏場に行きましたが、木がもりもり生えてるタイプの古墳なので、落葉の季節に行くと墳形がより分かりやすいと思います。
墳頂部には石棺の蓋のような石材が置いてありますが、この古墳の埋葬施設は木棺なので、古墳とは関係ないようです。
当古墳から発掘された三角縁神獣鏡は、岡山県備前市の鶴山丸山古墳から出土したものと同じ鋳型を使っていたことが判明している。
会津若松周辺を流れる川は、阿賀野川水系に属するものが多く、日本海側を介した西日本・大和政権とのつながりが深かったと考えられる。
伊佐須美神社に残る伝説も、そのことを示唆しているようだ。
会津若松駅から墓園を目指して歩くと墳丘に行き着きます。
想像していたより、大きな古墳です。
もう少し現地に説明板があると良いと思います。
大塚山墓園を上まで登っていくと、案内板と古墳に至る道があります。
出土品の説明などが、今後もっと充実すると良いのですが…。
名前 |
会津大塚山1号墳 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2012110900024/ |
評価 |
3.7 |
山頂に100メートルを超える前方後円墳があります。
山頂付近に松江豊寿が市長時代に建てた石碑があり、東斜面は会津若松市の共同墓地で外交官で詩人だった柳澤健の墓などもあります。