善光寺信仰の前身となる信仰だと感じる。
健御名方富命彦神別神社(水内大社) / / .
善光寺三鎮守。
なのに全く手入れがされていないようで、草がぼうぼう。
ですが、眺めは良かったです。
高台にあり善光寺と美術館が一望出来る景色のいいところです。
駐車場へ行く途中で寄りました。
人が居なかったので淋しさを感じました。
長野県長野市大字長野字本城東に鎮座する彦神別神社の書き置き御朱印を頂きに参拝。
創建は不詳。
『延喜式神名帳』には名神大社として「信濃国水内郡 健御名方富命彦神別神社」の記載がありその論社とされている。
現在に至っても比定の決着はついていない。
ちなみにその他の論社は信州新町と飯山市にある。
明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂(歳神堂)八幡宮」と称していたらしい。
延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている。
この地は古く、科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられてきており、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから古社の所在地としてふさわしいと考えられている。
逆に言えば、古代からこの地には大和系とは違う諏訪(出雲)系の影響がかなり強く働いていたということであろう。
そして時代は下り明治12年(1879年)1月、明治天皇臨幸を契機として神仏分離令により善光寺年神堂(歳神堂)を善光寺境内から、真東の丘上、城山公園内に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。
ちなみに御朱印は、南に800m程下った武井神社で頂くことが出来ます。
タイミングが合えば直書きでも頂けるようです。
諏訪大社のご祭神でもあり、大国主神の息子神が祭られる場所。
境内は少々アレですが気持ちよい環境で、もっと大切にされるべき場所です。
現在の景観は廃れた様になっているが元々シナノ国を支配していた金刺一族(元・科野一族が改名)の居住地見晴らしもよく水内郡を一望できたという国造の金刺一族は諏訪大社の神主でもあるからこの神社名も諏訪神「建御名方神」と名前を重ねている可能性が極めて高い長野~善光寺~諏訪大社の歴史を知る上で欠かせない場所の一つである。
令和元年10.3参拝 御朱印は武井神社さんにて拝受。
あまり注目されない神社だが、善光寺信仰の前身となる信仰だと感じる。
夏 涼しく犬の散歩には最適です。
明治11年(1878)までは善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していた。
善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになっていたという。
延喜式内社(論社) 信濃國水内郡 名神大社 健御名方富命彦神別神社 旧県社元は善光寺本堂北側にあり年神堂といわれていた。
歴史もあり社格も高い神社ですが、手水舎も無く宮司非常駐のとても寂れた印象でした。
管理人の知る限りでは正式名称が日本で一番。
城山公園駐車場に停めて参拝できます。
健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけ神社)出雲と追われた武御名方命は再起を図る。
善光寺のある長野市城山町は、武御名方の城の跡だろう。
善光寺の西の一番高いところ、おそらくここが本丸跡と思われるところにこの神社がある。
彦神別尊は武御名方の長男で、後に善光寺平を治めた人である。
@古代日本正史 原田常治著 P384
名前 |
健御名方富命彦神別神社(水内大社) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
水内大社について、ブラタモリで見てそういうことだったのか⁉️と初めて知った。
ここから善光寺がよく見える、と言うことが、この神社の重要なスポットだと言う。
土塁があり、それが上杉謙信が陣を敷いた所の跡なのだ。
武士が政権を握った最初の人、源頼朝が善光寺を大きく保護した。
だから善光寺を保護すれば自ずと政権を握れると考えた。
善光寺を挟んで武田と3ヶ月間睨み合って和解した。
と言う。
善光寺が武士にとって憧れの場所、そこを眺めるこの場所が上杉にとって重要な場所だったのだ。
そんな事全く知らなかったので寂しい神社くらいにしか思っていなかった。
驚いたことであった。
これからは大切にしたい。