男なら、乞うなりたいと感じました。
甲斐府中から遠く離れた小諸に墓所があるとは…信繁公の思いは如何に…篤く弔いたいものです。
共同墓地の一郭にあって、しかも住宅街が近くて道幅が狭いので、車で行くと他の通行車両の妨げになって大変です。
しかも、意外とよく車が通るんですよねぇ。
かといって、布引観音の駐車場からじゃ遠いですしねぇ。
現在の墓石は、戌の満水で流された後、明治になって立て直された物だそうで、実物は布引観音にあるそうです。
大きな石の、お墓でした。
共同墓地になっているのか?ズカズカと入るわけにもいかず看板だけ読んで帰ってきました。
他の方も書いていらっしゃられますが駐車場無し自分は原付だったので寄りましたがそれでも軽トラなんかが来たら避ける場所もないくらいでした。
『武田信玄』の実弟『武田信繁』のお墓です。
通り名は『武田典厩(てんきゅう)』 『松代』には真田信之により建立された川中島合戦で戦死した人を慰霊する為の『典厩寺』というお寺が在ります。
『武田信繁』も『川中島の合戦』で戦死しましたが、戦国時代、その首が敵の手に渡るのは偲びないと思った家臣により、故郷に葬るべく甲斐の国を目指しましたが、力尽きこの地に埋葬されました。
その『勇猛果敢』な立ち振る舞いから羨望され、自分の子孫に『信繁』と名前を付けた武将も多かったそうです。
『真田信繁(通り名幸村)』もそうですね。
こんな所にあるんですか?って感じです。
武田家ゆかりのわが家では、貴重なお墓です。
武田信玄の弟のお墓だけに、立派な大きな一枚岩で出来ています。
うちのお墓もすぐ近くにあります。
男なら、乞うなりたいと感じました。
武田信繁(たけだのぶしげ)甲斐武田家第18代当主武田信虎の4男として1525年に生まれた母は正室の大井の方(武田信玄の同母)武田晴信(武田信玄)の弟甲斐の守護大名で父の武田信虎は幼少期から武田信繁を寵愛し兄武田晴信(武田信玄)ではなく武田信繁に家督を譲る気であった武田信繁はあの武田信玄と張り合う器を持った武将だったと伝わるしかし武田晴信は1541年父武田信虎を駿河へ追放すると武田家の家督を奪い取る様に継いだこれは戦国と言う下克上の世の慣わしであるここで普通であれば兄と弟の家督争いが生じてもおかしくはないしかしもともと兄を慕っていた武田信繁は一切揉めることもなく家督を継承した兄の忠実な片腕として武田の領土拡大に以降大きく貢献して行くことになるもし父信虎の追放がなかったら武田家第19代当主は武田信玄ではなく武田信繁になっていたかもしれない甲斐の武田晴信は一族を養子に出して信濃を懐柔させる方策をとっていた武田晴信の次男武田信親も信濃の海野氏に養子に出し海野家を復興させている庶子である信玄の四男武田勝頼も信濃の諏訪氏に養子に出されて諏訪家を継いだ信濃の仁科氏には武田信盛を養子に出し仁科家を継いで仁科五郎信盛と称している武田信繁の嫡男武田信頼も武田に臣従した信濃の望月氏の養子に出されて望月家を継ぎ望月信頼と称している。
名前 |
武田信繁の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.6 |
周辺のオススメ

県道40号から100メートル程入った墓地の一画に石塔が建っている。
上部には武田菱が彫り込まれている。
お線香を上げようとしたら、持って行ったお線香と同じくらい燃え残ったお線香が。
先日も石塔の前に佇む人が居た。
歴史好き、武田一族のファン恐るべし!駐車場がありません。
私は県道沿いの自販機の横のスペースに停めて歩いて行きました。
勿論帰りに自販機で缶コーヒーを一本!