義弟大野昇雄により負傷した太田黒伴雄(飯田→大野→...
太田黒伴雄終焉之地碑 / / .
【太田黒伴雄終焉の地】明治九年十月二十四日夜、熊本鎮台歩兵営襲撃に傷ついた敬神党首領太田黒伴雄は、同志に支えられて熊本城西南の法華坂をくだり、坂下の民家に入った。
太田黒の傷は銃弾に胸を射抜かれたもので、致命傷であることが知れた。
意識が薄れそうになる中で太田黒は介錯を求めるが、つきそう者たちは決断がつかない。
太田黒は自分がどの方角を向いているか聞き、西面していることを知ると体を東に向けかえさせ、ふたたび介錯をうながす。
ようやく決意して義弟大野昇雄が首をはねた。
ときに伴雄四十三才、遺言は「うけひの戦いは敗れた。
全員城を枕に討死せよ」とあった。
うけひとは一党特有の神慮をうける行為のことである。
この一言は象徴的な思想行為としての挙兵の性格をよく表している。
ゆえに再挙は考えられず、一途城を枕に討死すべしとされた。
神風連とは世人が熊本敬神党にあたえた戯称にほかならない。
渡辺京二著『神風連とその時代』より抜粋。
名前 |
太田黒伴雄終焉之地碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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明治9年の神風連事変により、義弟大野昇雄により負傷した太田黒伴雄(飯田→大野→太田黒へ養子にいく)が介錯された民家跡。