名前 |
木庭宗雲の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
民家の敷地内にありますので迷惑がかからないようにしましょう。
霜野の古老に話を伺ったところこの場所で間違いないということで確認がとれました。
戦国時代末期頃、九州は佐賀の龍造寺と鹿児島の島津が勢力を伸ばしており、肥後北部を治めていた菊池三家老の内、隈部氏は龍造寺方・城氏は島津方についていました。
当時この地は隈部氏に従う内空閑氏が霜野城などを築き守っていましたがこれを島津が攻めます。
これは島津氏の動向を記した上井覚兼日記にも記されています。
肥後の地理に疎い島津の案内役として城氏の家老である木庭氏が先陣を切って霜野城を攻めます。
木庭氏は菊池の木庭城に領土を持っていましたが元々は霜野の南西の木葉の氏族だったようなので案内役に抜擢された一因だったのかもしれません。
ともあれ、そこで内空閑氏の家老の牧野弾正と木葉(木庭)三郎入道宗雲の戦いとなり木庭宗雲は討ち取られます。
その墓がこの塚であるとされています。
また、霜野川の少し下流には宗雲と戦った牧野弾正の墓もあります。
牧野弾正もこの戦いで木庭宗雲の子 木庭帯刀に討ち取られています。
木庭帯刀もその直後に討ち取られているようですが墓などはないようです。
分かりづらいので主従関係↓龍造寺に従う隈部氏に従う内空閑氏の家老牧野弾正島津に従う城氏の家老の木庭宗雲とその子 帯刀。