四王寺県民の森 センター 管理事務所に設置されてい...
日本100名城のスタンプは、四王寺県民の森 センター 管理事務所に設置されています。
近所であり、天気のいい暖かい日にはドライブがてら散歩代わりに車で出掛け、アウトドアチェアで寛ぎながらお気に入りの飲み物を片手に思索を巡らせる。
大野城と名乗りながら、所在地は大野城市のお隣の宇美町で、しかもそこから見える風景は大野城側ではなく、太宰府市全景という、よく考えてみれば奇妙な場所だ。
しかし、盆地である太宰府市から耳納連山までの風景を一望できるこの場所は、気分転換には最高の場所で、現在の自宅に住んでみようかな、と思えたのも、裏庭的なこの山々から拓けた眺望がいつでもすぐに見れるということがあったからだ。
10台前後が駐車可能な駐車場やしっかりと清掃が行き届いたトイレまであり、史跡はハイキングコースにはぴったりの散歩道として整備されている。
大野城近郊にお住まいの方はぜひ足を運んでみて頂きたい。
焼き米ケ原駐車場に車を停めて廻りました。
建屋基礎石、池、そして大石垣案内板が少ない為少し迷いながら廻り辿り着く???石垣50Mの案内板が?今通って来た処??水を流す為の石組だと思った処が下への降り口だとは思わず通り過ぎる、石垣の看板をしっかりと立ててください。
日本100名城。
国防最前線にあったことを感じさせる古代山城。
山登りの人も家族の遊び場にもなっていた。
100名城スタンプのある四王寺県民の森 センター 管理事務所・学習研修でDVDを観せて頂き、初めてこの山城の意味を知る。
大野城単体ではなく、太宰府を中心として、水城、基肄城をセットでまわることでわかる規模と歴史がここに合った。
実は歩きで登らずとも車移動で四王寺県民の森 センター 管理事務所・学習研修館から登って行ったところの焼米ヶ原の展望台に行けた。
冒険度★★★★疲れ度★★★★城強度★★★城規模★★★★★
太宰府駅で電動自転車を借り、岩屋城を経由して到着しました。
白村江の戦いに敗れた朝廷が唐•新羅の侵攻に備えて太宰府政庁の背後の山に築いた古代山城で戦国期より約900年くらい前の城なのであまり期待せずに訪問しましたが、印象を覆されました。
四天王山全体を総延長約8キロの土塁と石類で二重に囲むという規模は今まで訪れた山城の中でもトップクラスの規模で、1日かけないとまわれないです。
特に圧倒的なのは百間石垣で急な勾配に壮麗な石垣が残っており圧巻で、戦国時代よりもかなり前に戦国初期よりも高度な技術があったことに驚かされました。
太宰府口城門跡、大石垣、小石垣、主城原の建物礎石など主要な遺構も点在しており効率的にまわろうと思うと自動車がオススメです。
100名城のスタンプは、百間石垣から少し登った県民の森センターに設置してあります。
名前 |
大野城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
大野城跡は、福岡県宇美町・太宰府市・大野城市にまたがる標高410mの四王寺山にある全長約8kmに及ぶ広大な日本最古の古代山城の跡です。
日本百名城のひとつです。
660年、新羅は中国を統一した唐の援助を受けて百済に攻め入り、百済は滅亡してしまいます。
百済の遺臣は、大和朝廷に救援を求め、大和朝廷はそれに応じ、663年、百済を救援するため、朝鮮半島に出兵し「白村江の戦い」が起こります。
しかし、唐・新羅連合軍に敗れてしまい、連合軍の日本侵攻が想定されたため、664年に大宰府政庁(九州の政治拠点)を防衛するための水城跡を造り、その後、665年に大野城が築城されました。
城といっても、近世の天守閣などがあるお城や中世の山城と違い、土塁(城壁)と石垣で山を囲んだ古代の山城です。
土塁と石垣で囲まれた城内には、建物跡(役所的機能をもつ建物や食糧庫・武器庫など)、城門、水場(井戸・池)、水門などが造られています。
土塁というのは、敵の侵入に備えた土でできた壁のことです。
質の違う土を数cmごとに積んでは叩きしめるという工法で巨大な土塁を造っています。
このような工法を「版築)」といいます。
土塁は四王寺山の尾根をとり巻く様に造られています。
谷間など、宇美町側と太宰府市側は、二重の土塁が設けられています。
これら土塁と石垣の総延長は、約8kmにも及ぶ長大なものです。
尾根は土塁で防御していますが、谷部など大雨で土塁が崩壊する可能性がある箇所では石垣を造っています。
石垣は現在、5箇所見つかっています(百間石垣・大石垣・北石垣・小石垣・水ノ手口石垣)。
なかでも、宇美町側から県民の森センターに向かう途中の右側にある百間石垣は、全長約180mにも及ぶ立派な石垣です。
城には、必ず出入口が必要です。
現在、8箇所で城門跡が発見されています(宇美口城門・太宰府口城門・坂本口城門・水城口城門・原口城門・北石垣口城門・小石垣口城門・観世音寺口城門)。
平成19年度の北石垣口城門の発掘調査では「鉄製軸受金具」が発見されました。
城の中には、多くの建物があったと推定できる礎石建物跡が70棟以上見つかっています(主城原礎石群・村上礎石群・尾花礎石群・増長天礎石群・猫坂礎石群・広目天礎石群・八ツ並礎石群・御殿場礎石群)。
尾花礎石群のそばに焼米ヶ原と呼ばれている場所があり、そこでは炭化した当時のお米を拾うことができることから、多くは食糧保管庫であったと考えられています。
大規模な土木工事によって造られた大野城でしたが、半島から連合軍が攻めてくることはありませんでした。
ところが、その後、新羅が日本を呪って祈祷しているという噂が広まったため、774年、大野城跡に四天王寺(四王寺)というお寺が建てられます。
現在、四王寺山という名前で呼ばれている由来は、奈良時代に建てられたこのお寺と考えられます。
現在、四王寺山には、四天王である「毘沙門天」「広目天」「持国天」「増長天」と呼ばれる地名が残っています。
これも四天王寺の名残です。
しかし、寺の創建当初の建物跡などは発見されておらず、その実態は謎に包まれたままです。