解説板はなく、お寺さんの由縁はわからず。
高乗寺十世陽山嶺墩大和尚が、大久保長安を供養するために開いたと言われている。
参道の敷石は、かつて八王子市内を走っていた路面電車の礎石を保存利用したもの。
徳川の葵の紋のあるお寺。
多分、ここら辺ではめずらしいのでは?
八王子市並木町、甲州街道の南側に面した仏教寺院。
どの宗派の寺院なのかは調べたことがない。
この寺院を訪れた目的は、甲州街道側から本堂に至る通路に敷かれた敷石(写真参照方)を検分することにあった。
この敷石は、かつて東八王子駅前(むかしの京王線終点)と高尾橋(現在の高尾山口駅近く)を結んでいた路面電車「武蔵中央電気鉄道」の軌道敷石を、同路線廃止後に転用したものである。
このことは、近年NHK総合テレビの人気番組でとりあげられたので、ご存知の方も多いであろう。
とはいえ、私自身「路面電車の併用軌道」に親しみがある訳でもなく、首都圏に残された併用軌道(荒川線飛鳥山付近、江ノ電腰越ー江ノ島間)では舗装路に直接軌道が敷設されているから、石を見ただけで「これは軌道敷石である」と直ちにわかる訳でもない。
八王子市内には当寺院のほかにも軌道敷石の転用先があるらしい。
神聖な場所自然と同化していて良い 曹洞宗 山号 祥雲山 長安寺。
ご住職さんがかなりの勉強家と見え、色々と為になるお話をして下さいます。
写経会もしていますので、たまには 無 になるのもよろしいかと‼️
静かな小さなお寺です。
普段は何もありませんが夏には盆踊りが開かれます。
曹洞宗のお寺です。
山号は祥雲山長安寺。
創建年は戦災で不詳。
昭和55年に開山堂と位牌堂が完成している。
ノジマさんが、入っている西八王子ショッピングセンターから出ようとしましたが、出口は、混んでいて強引に一方通行を出て、甲州街道へ出ました。
前方を見ると「長安寺」の看板が、眼に入りました。
このお寺さんへ行こうと思っていたのですが、体調を崩していたのです。
車の往来を観て、お寺へ寄ることが出来ました。
JR中央線西八王子駅の南西、徒歩15分。
甲州街道に面し、本堂は北向きに建っている。
陽山嶺暾大和尚を開山として創建され、創建の年代は寛永3年(1626年)という説があるが、明らかではない。
また、寺名からは八王子宿の整備に尽力した大久保長安との関係が考えられるが、定かではない。
さらに、本堂の屋根の上には徳川家の葵の紋が見えるが、その紋を掲げるに至った経緯なども明らかではない。
本堂に至る参道の敷石は、昭和初期に八王子市内を走っていた路面電車「武蔵中央電気鉄道」の線路の敷石だったものと伝えられている。
(ポータルガイド東京)よりの参照です。
清水中世史研究所として、大久保長安さんの名誉を回復して置きたいです。
以下の経緯は『駿府記』『当代記』の記述を元にしている。
武田氏の遺臣から徳川家康に抜擢され、江戸幕府の代官頭として大きな権力を有していた大久保長安は、慶長17年7月頃より中風を罹患していたが、翌慶長18年(1613年)4月25日、駿府にて死去した。
遺体は甲斐に葬るために、急ぎ葬儀の準備が行われたが、家康より近年の代官所の勘定が滞っていることを理由に、中止が命じられた。
死後の5月6日、家康は長安配下の勘定・手代を呼び出し調査した所、過分な私曲を行ったことが発覚した。
これに怒った家康は諸国にある長安の財貨を調べることを命じ、19日には長安配下の手代を大名に預けている。
また5月17日には、家康が長安の息子達に命じた長安の代官所の勘定について、若輩故の能力不足で役目を果たせないと答弁している。
それに対して家康が命令を遂行できなければ迷惑は各所へ広がるので、長安が支配した佐渡金山や石見銀山は勿論、関東に千石の知行も与えられないとして、彼らを勘当している。
なお『中臣祐範記』によれば、長安の長子藤十郎は関ヶ原の戦い後に、奈良奉行を務めている。
長安の息子7人は7月9日に切腹を命じられ、長安の家系は断絶した。
また手代は同日、彦坂光正の下に置かれた。
長安の財貨は厳しく改められ、諸国よりの金銀は凡そ5,000貫目余に達し、その上茶道具一式を始めとする金製・銀製各一種類の各種道具も多数没収され、駿府の蔵に収められた。
8月には長安の子を青山成国として養子にした青山成重が減封の上蟄居、10月には娘を長安の嫡子・大久保藤十郎に嫁がせた石川康長が長安と共謀し知行を隠匿した廉で改易されている。
背景 編集長安の豪奢な生活は生前から有名で、『当代記』にその旨が幾つか書かれている。
例えば毎年鉱山巡視の際には、遊女70~80人等を含めた250人(伝馬・人夫は別)を引き連れ、宿所も自身の代官所故に思うままの造作をしたとあり、路中の民は迷惑したとある。
家康がこのような長安の振る舞いをどの様に捉えていたかは不明だが、『駿府記』『当代記』より後に編纂された『慶長年録』には、家康は長安の振る舞いを知っていたが、長安が有能なため捨て置いていたが、死後になって罪に問うたとある。
また同書には、大久保忠隣と本多正信の不仲故に、正信が長安の死後に家康へ讒訴したともある。
後者は『徳川実紀』にも引き継がれ、長安事件は忠隣改易も含め家康の意志ではなく正信・正純の讒言が主としている。
へそ曲がりで有名な、大久保彦左衛門も事件に連座して、2万石から2000石へと減俸されたのです。
大久保彦左衛門は、『三河物語』を書いていますが、家康公への当て付けだったのでしょうね!宗格院境内に「石見土手」が、有ります。
大久保石見守長安は、受領名です。
この浅川と北浅川の合流点が、深い淵になったいた様です。
家康公は、生前の不正を理由に財産を没収の上に、長安さんの一家子ども七人を切腹させるというむごい処置を取った。
(慶長19年4月25日)そして、この淵に彼らを投げ入れたとの説もある様です。
そして、八王子には、塗りつぶされた、黒い歴史があったことを忘れてはなりません!ご開山の陽山嶺暾大和尚は、高乗寺の代10世の様です。
※大久保長安逆修塔(おおくぼながやすぎゃくしゅうとう) 相川町大字江戸沢町の浄土宗大安寺にある、慶長十六年(一六一一)銘の大久保石見守長安逆修塔。
越前式宝篋印塔で、石室(覆殿)内に安置する。
石質は緑色凝灰岩(笏谷石・越前石ともいう)。
石室は切石を組んだ切妻平入造りで、安政三年(一八五六)の修復時(「大久保長安公 御石塔修理再建勧化帳」)にとり替えられた安山岩質がまざる。
石室背後の板石三枚のうち、左右二枚の内側にはそれぞれ、蓮華座に如来形の立像を半肉彫する。
向って右は智拳印を結ぶ金剛界大日如来、左は施無畏・与願印の如来像(釈迦か阿弥陀)であろう。
逆修塔は、巾約五○センチ、高さ四四センチの立方形切石(安山岩)を台石とし、その上に基礎・塔身・笠を組み、さらに一石造りの伏鉢・請花・宝珠を乗せる。
基礎は巾四一・五センチ、高さ三三センチで、上面は二段の造り出しとし、正面のみに田の字形の四ツ目文に区分して文様を刻む。
四ツ目文の上の二ツには八本の竪連子文、下の二ツはふちどりのあるお椀形の格狭間文をうすく刻む。
また、田字形の向って右側の縦線から、「大久保石見守殿」、中央に「法廣院殿一的□(朝)□(覚)」、左側に「干時慶長拾六亥暦」とあり、上の横線には向って右から「逆修」と刻む。
塔身は正面に、蓮華座と周囲に蓮弁を彫り付けた月輪をうすく浮彫りし、月輪内にはやや上よりに薬研彫りの種子「キリーク」を刻む。
笠は下面を二段、上は七段とし、隅飾突起は二弧造りとし、直線的に斜に開く。
伏鉢・請花・宝珠は高さ二二センチ、全高は一一○センチ。
本来、相輪(九輪)があったが欠損し、とりのぞいて宝珠形に加工したものと見られる。
『佐渡国略記』には、明和五年(一七六八)四月、歴代の墓とともに、本堂北側の現在位置へ移したことが記されているが、元の場所は南側前部あたりであろう。
平成八年、補修強化のため搬出され、五月二十五日に直された。
その間、四月八日から十一日にかけて、地下の発掘調査があり、人骨の入る高取焼甕三個が出土したが、長安のものではない。
平成六年五月二十四日、国指定史跡となる。
【関連】大久保長安(おおくぼながやす)・大安寺(だいあんじ) 【参考文献】計良勝範「大久保石見守長安の逆修塔」(『いしぼとけ』創刊号)、京田良志「越前式宝筐印塔ー大久保長安逆修塔ー」(『佐渡相川の歴史』資料集二)、斉藤本恭・佐藤俊策「大久保長安逆修塔地下の調査」(『相川浜石』四号) 【執筆者】計良勝範 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
参道の敷石は八王子市内を走っていた路面電車の敷設石だったそうです。
名前 |
長安寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
042-661-6975 |
住所 |
|
評価 |
3.8 |
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解説板はなく、お寺さんの由縁はわからず。