こちらのしだれ桜もとてもきれいです。
青梅街道から坂を下ったところにある。
駐車場あり。
この地を領有した三田氏の庇護を受けていたという。
三田氏は将門後裔を名乗っていた。
金剛寺が将門創建と伝わるのはその関係であろうか。
境内には青梅の由来となった梅が残る。
何の品種か気になったが説明板には突然変異種と記されていた。
天気予報のテレビを見て行ってみました。
枝垂桜には早く、梅には遅いあまり良い時期ではなかったけど将門由来の梅、青梅の梅、風格がありましたよ。
3/12に訪問しました。
梅と桜(河津桜?)がきれいに咲いていました。
ゆっくりと楽しむことができました。
静寂なところです春には枝垂れ桜が綺麗です。
狭山にあるお寺様です。
小さな池がありました。
町中なのにキレイな水。
隣で幼稚園も経営しているよ🎵
真言宗豊山派で白不動明王が御本尊の金剛寺さん。
境内も素敵です。
青梅市の名の由来である「将門誓いの梅」を擁しておられます。
僧正門(都有形文化財)と鐘楼は桃山時代当時の姿のまま現存しています。
御朱印、御首題は大中小の3種類。
通常の御朱印帳サイズは小です。
ありがとうございました✨
青梅の地名の源になった梅の木。
老木ですがしっかり葉を付けていました。
境内にある藤の棚も綺麗でした。
真言宗豊山派のお寺、青梅山無量寿院金剛寺。
ここには、青梅の地名の由来になった梅の木があります。
ここは青梅の地名の原点、大切なお寺さんです…、
桜は近くの梅岩寺の方が有名だと思いますが、こちらのしだれ桜もとてもきれいです。
ほどよい大きさ、近くによれる、すこし濃いめの花色で、この桜をバックに写真を撮るとすごくキレイ。
梅…桜…とてもキレイです平日の昼間幼稚園もあり子供たちの声が響いていて、癒されます!
青梅市の由来となった梅の樹があるお寺さん。
春にはシダレザクラで混み合うが、それ以外にも見るべきものがちょいちょいある。
見事なクロマツ、コウヤマキ。
長い歴史の中で育まれた庭は本当に素晴らしい。
久しぶりに行って改めて良さが分かるようになって少し嬉しくなりました。
植木屋さん、凄く大変だと思うけど丁寧な仕事は見る人が見れば分かりますよ。
これからも頑張って欲しいです。
景観も良くて落ち着きます。
静かでいいところでした。
歴史を感じる場所でした。
大好きな将門公ゆかりの地。
老木で小さいながらも、きれいな花を見せてくれる“将門公手植えの梅”には、見る度感動させられます。
青梅市の市名の元になった、梅が有ります。
歴史を感じる良いお寺です青梅の地名発祥の地です。
昔からの寺院です。
建物も古いので、興味のある方はたまらないと思います。
青梅と言う名の発祥の梅の木もあり、春には大きな枝垂れ桜も見事です。
建物も桜も一見の価値は充分にあると思います。
青梅山金剛寺と言う名称の通りに青梅市の名前の由来となった東京都の天然記念物にも指定されている「青梅」が有名です。
現在は老衰期で往時の元気が無い老木ですが、その昔は最後まで梅の実が青々としていたようです。
それ以外にも東京都文化財となっている表門や青梅市の文化財となっている銅鐘等の見所も多いです。
小田原北条氏に庇護され、かつては広大な寺域を持っていたと言う金剛寺ですが、今でも市内を代表する古刹だと思います。
真言宗豊山派のお寺で青梅の由来になった梅の花は季節柄咲いていませんでしたが、しだれ桜が見事でした。
参拝者用の駐車場がありました。
東国花の寺の御朱印を頂くために伺いました。
東国花の寺 東京第11番札所多摩新四国八十八ヶ所霊場 第47番札所奥多摩新四国八十八ヶ所霊場 第54番札所。
平将門が開基となり、京都蓮台寺の寛空大僧正を招いて開山したとの言い伝えがある。
この寺の庭に「将門誓いの梅」という梅樹がある。
将門がある時この地で、「我が願いが叶わないならば枯れよ」と言い、馬の笞にしていた梅の枝を地面に突き刺したところ、枝は根づいて枝葉が繁茂したという。
この梅の実は夏を過ぎ、秋になっても実が青々として落ちないということで近郊でも有名となり、「青梅(おうめ)」の地名に由来なったという。
青梅市の地名の由来となった、平将門の誓いの梅の木が、あります🙇東国花の寺の一つでも、あります🎵
多摩八十八ヶ所霊場 第47番札所 (本尊)白不動明王 (宗派)真言宗豊山派 平成28年10月23日参拝 敷地内に幼稚園やミカン畑もある広大な札所です。
庭園はすばらしく、周囲の白壁がとても印象的でした。
名前 |
金剛寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0428-22-2554 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
青梅山無量寿院金剛寺といい真言宗豊山派のお寺です。
御本尊は智證大師真筆と伝わる「白不動明王」になります。
青梅の地名発祥の地です。
金剛寺は承平年間(931年~937年)に平将門が当地に来て馬の鞭としていた梅の枝を大地にさして「我が望み叶うならば根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったところ、この枝は見事に根を張り葉を繁らせたことから京都蓮台寺の寛空僧正に開山を請たものの寛空は辞退して、自刻の弘法大師像を送り寺名を空海の灌頂号「遍照金剛」にちなんで「金剛寺」とし、安置された平将門の念持仏阿弥陀如来(別名:無量寿仏)から「無量寿院」と号したといいます。
その後に頼遍上人が元享年間(1321年~1323年)に中興開山して、徳川家康公が関東に入国した天正十九年(1591年)には本寺格として寺領二十石の御朱印状を拝領し真言宗の檀林所として末寺二十五寺を擁していたといいます。
天保十二年(1841年)の火災で表門・鐘楼を残し全てが灰燼に帰してしまいました、第五十五世旬誉阿闍梨が再建の工を起こし現在の堂宇を建立した。