元禄十年の聖観音、造立年不明の馬頭観音です。
観音堂自体は昭和42年建立だそうですが、聖観音は元禄十年(1697)と刻まれており、300年以上にわたって新河岸川の舟運を見守ってきたそうです。
’220402 日差しの関係で像三体は不可中に石像が三体あった。
観音様が雨をしのげられるようになっていた。
引又(ひきまた/ひくまた)は、志木の旧名。
この名は、本来、曳馬多と書いたそうだ。
志木は、新河岸川の舟運で栄えたそうで、そのため、荷馬車が多かったらしく、その荷馬車が地名の由来で、その後、引股と書かれるようになり、引又へと字が簡略化されていったようだ。
明治時代に舘村と合併することになったそうだが町名争いになり、ご破算になりかけたそうだ。
大昔は舘村だったのが分村したものであり、元に戻るんだから舘村にすべきと、舘村側が譲らず、かといって、引又は舟運で周辺の各村よりも栄え、ネームバリューが上ということでこちらも譲らず、合併を勧めた県が仲裁にはいり、舘村よりも古い地名がなかったかを古文書で調べたところ、そこに〈志木郷〉を発見し、それを提示したところ由緒のある名ならということで志木村として合併が成立…が、古文書を調べたのが学者ではなく県の役人であったがために、志木郷がこの土地と無縁だったことが発覚した。
奈良時代に、今の和光市周辺に新羅郡が置かれたが、新羅は日本では(しんら)としか読めず、当て字で(志楽木)と書き、郡家(郡の役所)を置いた場所をその当て字を略して志木郷と呼んだそうです。
実は、この志木郷は当時の地元の訛りから、都から派遣されてた郡司(郡の役人)には、しらこと聞こえたらしく、和光市の白子という地名の由来となっていて、今の志木は志楽木郡(しらきごおり)に含まれていなかった。
そのため、その後に合併や離脱を繰り返すたびに、足立町などと名が変化し、昭和45年の市制施行の時に志木市になったらしい。
名前 |
引又観音堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
向かって左から、明和六年の馬頭観音、元禄十年の聖観音、造立年不明の馬頭観音です。