30年4月12日~25日 桜草祭りです。
桜草祭りで行きました。
種類の違いもけっこうありますが桜草だけでかなり多い。
ただし数分で見回れる程度の広さで、浮間公園ついでに見に来る程度です。
展示時期が僅か二週間だけなのと、時間も短いのがもったいない。
10時開園。
コロナ下ではあったものの,サクラソウ祭りが開かれていた。
かつての荒川流域河畔では,サクラソウが咲き乱れていたという。
特に江戸時代以降,浮間ヶ原はサクラソウの名所として賑わい,見物客向けの茶屋が立ち並らんだとも。
浮間ヶ原のサクラソウが知られる様になったのは,徳川家康に端を発するらしい。
なんでも家康は,当地周辺で鷹狩りを行った際に,この地のサクラソウを気に入り,そのまま城に持ち帰ったそうである。
そして,このエピソードを知った旗本にも浮間ヶ原が知られる様になり,後年,町民にもその噂が広がって,江戸近郊の行楽地の一角として,浮間ヶ原は,その名を馳せた。
また少なくとも江戸後期には,サクラソウの愛好家が存在し,品評会で美しいと評された株に幾らでも金を積んだという。
こういったクレイジーな愛好家の存在は,朝顔,菊などと同じくして,園芸ブームを下支えした。
愛好の対象となった植物は,品評会で好評を得られる様に,引いては愛好家に高値で買い取られる様に,様々な品種改良が行われる様になる。
また愛好家が好む株は転々売買され,植物バブルも起こったとか。
そして,サクラソウもこれらの投機対象のひとつとして,旗本や町民によって,副業的に自家栽培がなされた歴史がある(勿論,副業としてではなく,愛玩対象として人気があったのも間違いない。
)。
昭和初期,治水工事や周辺の都市開発により,荒川流域の生態系が崩壊。
浮間ヶ原のサクラソウは野生絶滅した。
しかしながら,上記の様な理由で,浮間ヶ原のサクラソウは連綿と自家栽培が続けられていたため,完全な断絶を免れる。
現在,地元保存会によって,それらが浮間ヶ原桜草圃場に集められ,そして,サクラソウの完全復活が願われている。
ここのサクラソウを観賞したが,田島ヶ原のサクラソウと違って,花びらの形がギザギザだったり,花びらの色が斑模様だったりして,見ていて飽きなかった。
詳しくはないが,やはりこれらも自然物ではない人工物,品種改良されたものなのだろう。
中には浮間ヶ原のオリジナル品種もあるという。
ここにサクラソウに纏わる江戸以来の人間文化の存在がチラついて見える様に思われた。
なお,当地で配られるパンフレットに,花びらの形の一覧表が載っていたので,良く参照した。
毎年4月中旬頃から、桜草の開花時期に合わせて開放されます。
場内では桜草が沢山咲いており、同時期に近くの神社の境内で、鉢が販売されることもあります。
ここら辺は、かつて桜草がたくさん咲いていたということで、人気の観光スポットだったそうです。
今はこの圃場で保存会の方に栽培されていますが、可憐な花は見ているだけで癒されます。
草花なのでいつ行けば見頃なのかは難しいですが、開放されている間は、無料で何度も入れるので、毎年何度か足を運んでいます。
ベビーカーや車いすでも入れます。
名前 |
浮間ヶ原桜草圃場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5390-1234 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
浮間ヶ原の桜草ここに咲く桜草は、日本に固有の品種で、ブリムラ・シーボルディという学名がつけられています。
四国を除く北海道から九州までの湿地に自生する 多年草で、四月の中旬から下旬にかけて淡紅色の小さく可憐な花を咲かせます。
荒川流域では、昭和の初期までは浮間柄ヶ原や対岸の 戸田ヶ原、田島ヶ原に数多く自生していました。
田山花袋は大正七年二月に出版された「一日の行楽」という著書の中で浮間ヶ原を取りあげ、毛氈を敷きつめたように咲き乱れる桜草が、ここを訪れる女学生 達と織りなす美しい情景を描いています。
戦後、浮間ヶ原の桜草は自然環境の変化や荒川流域の開発で絶滅の危機に瀕しましたが、僅かに残った桜草が圃場に移植され、昭和三十七年八月に地元の人々によって浮間桜草保存会が結成されました。
桜草は暑さと乾燥に弱く、この性質を補っていた荒川の自然条件は、保存会の人々の心を込めた栽培作業によって保たれることになりました。
現在の圃場は昔の浮間ヶ原の面影を取り戻そうと計画され、当初の圃場を移転して開設したものです。
平成元年四月 東京都北区。