昭和62年(1987)に行われた発掘調査で城の空堀...
太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
夏には道灌祭りというお祭りもこちらで開催されます。
静勝寺のお堂の中には太田道灌の坐像が安置されています。
毎月26日に開扉されるとの事。
赤羽駅から線路に沿って歩いていたら、太田道灌が築城したといわれる稲付城跡の案内があり、紅葉がきれいだったので寄り道。
現在は静勝寺さんの境内一帯にあたり、戦国時代の砦跡だそう。
道灌の死後、稲付城をお寺にしたのが静勝寺さんのはじまりなんですって。
静勝寺さんから南へかけてのこんもりとした丘陵一帯が稲付城跡だそう。
新しく整備された街並みから急な石段を登ると一気に落ち着いた空間が現れます。
山門正面奥にあり木造太田道灌坐像が安置された道灌堂で北区の指定有形文化財です。
戦国時代の砦跡とのことです。
立派な石碑があるものの開発で遺構はまったく残っていません。
いちおう発掘はされて堀跡も見つかったようなので、説明板読んで当時に思いをはせましょう。
東京都指定史跡。
享徳の乱以降,古河公方と対立を続ける関東管領家 扇谷上杉氏を支え続けた名臣 太田道灌の築城とされる。
道灌は,江戸城・川越城・岩槻城などの本城を築き,それを軍事的に補完する支城を多く建てたことでも知られる。
稲付城は,江戸城から岩槻城までを繋ぐ岩槻街道途中の3分の1地点にあるため,どちらかというと支城として建築されたものと推測される。
『北区のたからばこ』という北区発行の文化財解説冊子に,江戸中期初頭の貞享四年(1687年)に作図された検地図が掲載されており,寺の四方に堀壕と思われる溝が描かれている。
昭和六十二年(1987年)の発掘調査により,永禄~天正年間(1558~1593年)頃の空堀と思われる遺構が出土したらしいので,少なくとも,(太田道灌の築城か否かは別として,)城があったことは間違いないのだろう。
江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によれば,寺の西側に鶴ヶ堀と呼ばれる堀跡があるそうである※。
おそらく,墓地西側の擁壁の辺りをいう者と思われるが,確信は持てない。
また,亀ヶ池弁財天は,堀跡とされる※。
ネット上の北区の地形図を見るに,稲付城跡は,荒川の沖積平野を望む舌状台地上に位置することが分かる。
※『新編武蔵風土記稿』稲付村……鶴ヶ堀……静勝寺の西脇にて昔太田道灌が城郭ありし時の堀跡なりと云……静勝寺……境外西の方は低くしを龜が池鶴が堀など唱ふる所は當時堀蹟なりと云。
赤羽駅から徒歩3分ほど。
旧に小高い丘が現れ、そこは戦国時代に稲付城と呼ばれる砦があった場所とされています。
賑やかな赤羽の街からは想像もつかないほど、静かな境内です。
築城は、江戸城と同じ太田道灌(おおたどうかん)。
太田家の子孫が道灌の木像を安置する静勝寺を建立し、現在城跡は寺の境内となっています。
江戸城と、埼玉・岩槻城(現在は城址のみ)との中継地点として実在したと伝えられます。
赤羽駅から見える城跡。
お寺しかありませんが、地形から想像できる雰囲気はあります。
住宅地になっているお寺の南の方に坂を下らないように歩くと、もう少しお城らしさを感じることが出来ました。
この辺は坂や階段も多く、勝手な想像ですけど意外と大きなお城だったような気がします。
やがて細い路地を抜けたところ、やはり太田道灌創始と云う鳳生寺の前に出ました。
地形もお城の続きの様な感じです。
赤羽台や八幡神社の方も含め立派な城砦だったんじゃないでしょうか。
高低差がお城を思い起こさせるよね❗
駅反対口の図書館には赤羽に関する研究資料があるので見に行き、ここも訪れた。
調べたのは台地で大宮大地から赤羽台地までを調べると交通の歴史も見えてくる。
因みに太田道灌説はあくまでも説なので資料にもそう書いてある。
境内は狭いが東京というのを忘れる場所。
急坂は東京の特徴ですね。
東京23区内では江戸城に次ぐ名城だと思います。
ここに砦を立てている点に、太田道灌のセンスの鋭さを感じます。
遠くを見渡せる高台、北の荒川。
条件が揃っています。
中世の北関東の勢力に対して、最終防衛線を張るとしたらここしかないです。
太田道灌縁の赤羽の稲付城址跡(静勝寺)月命日の毎月二十六日には、道灌様の坐像が公開されます。
かつて太田道灌が築城したとも言われる稲付城跡。
江戸城と岩槻城の中継するための山城とのことだが、今も東京駅と大宮を経由して岩槻を結ぶのが京浜東北線でここ赤羽を通っていることを考えると、室町時代から人の流れ、交通の流れが変わっていないのだなあ、、、、と思え、なかなか感慨深い。
(この城跡は京浜東北線赤羽駅の本当にすぐ近くにある)「山城」といっても大きな山の上ではない。
ただし、結構な急な丘陵の上に建っており、石段は急だし、両脇の坂道も急。
城跡の背後は住宅地だがそこも階段で降る道がおる。
空堀の遺構などもあった模様。
城跡といいつつ、お寺になっており、太田道灌の子孫が建立しいまに至っている。
中には太田道灌の木造があり、月命日の毎月27日には見学もできる模様。
戦国時代初期の大田道灌による、築城とされる。
現在は城らしい物はない。
遺構は残ってません。
今は寺です。
赤羽駅から歩いて3分ほどの場所。
少し分かりにくい台地に位置する稲付城跡。
太田道灌公の木像を祀る静勝寺となり現存しています。
江戸、岩槻、河越、稲付(赤羽)と武蔵国支配の重要拠点を差配していた道灌公の優秀さは上記拠点が河川で繋がっている事からも理解出来ます。
城跡の雰囲気は皆無ですが、城を拠点という視点で考え直すには非常に優れた史跡だと思います。
ここは小高い丘で周りが見渡せる場所です。
日暮里の本行寺同様に太田道灌縁のお寺です。
太田道灌のお城址だとか。
今は、静勝寺さんの境内となっています。
太田道灌ゆかりの城跡。
城跡としては特段何もありませんが、見晴らしの良い高台で、坂、階段ともに急で要害の地です。
このお寺は太田道灌が築いた稲付城跡に建つ。
280年前に造られた太田道灌の坐像が鎮座。
毎月26日に公開。
1590年頃に徳川家康によって城は取り壊されお寺となった。
名前 |
稲付城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/nishigaoka/inatsuke.html |
評価 |
3.7 |
静勝寺境内付近一帯は、戦国時代、稲付城と呼ばれる山城で、昭和62年(1987)に行われた発掘調査で城の空堀が確認されています。
太田道灌が、江戸城と岩槻城を中継するための砦として築いたと伝えられます。
道灌没後、子孫の太田資宋が明和元年(1655)に静勝寺を創建し、以後、道灌の木像を安置する道灌堂を造営するなど菩提寺として今日まで継続しています(説明板記述)。
戦国時代は守りの砦、今の時代は見晴らしの良い高台に建つ風光明媚な仏教寺院。
時代の変遷を感じます。