由緒板の内容をテキスト化して下さったかたがありまし...
氷川神社u0026浅間神社u0026三峰神社u0026お稲荷さんu0026水宮神社の5社が1つの場所にある、氷川神社です…。
荒川と隅田川が分流して両側を流れる、中洲のような地形のところにある。
氷川神社は、荒ぶる関東平野の河川を鎮めるための神社だが、こちらも後ろはすぐに荒川土手で、その目的がはっきり感じられる立地である。
荒川自体が何度も氾濫・改修を受けているので、この神社も創建時からここに鎮座していたかどうかは分からない。
大規模ではないが、氏子さんたちによってよく手入れされている感じがする境内と社殿。
山岳信仰を示す、小型の富士塚もある。
創建は南北朝時代とも言われる。
豊島重中がこの辺りを開墾した時に、武蔵一ノ宮氷川神社の分霊をこの地に勧請して祀ったのが始まりと言われている。
御祭神は素盞嗚尊。
江北橋のすぐ近く。
境内はとても綺麗で、心がスッとした。
小さな富士塚がある地元の神社 元は、豪族の屋敷跡のようです。
隣に公園が有り。
公衆トイレも有りました。
カウントダウンでクラッカー配られて、新年にクラッカーとおとそで皆で祝った。
宮城氏は豊島氏の庶流で豊島氏が没落後は宮城政業が岩槻城の太田資正に仕えるも泰業の頃には後北条家に属し小田原の役により北条氏と共に運命を共にした。
宮城家としては江戸時代には旗本として存続した。
名前 |
宮城氷川神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3897-6483 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
由緒板の内容をテキスト化して下さったかたがありましたのでコピペさせて頂きます。
ありがとうございます。
(以下)宮城氷川神社由緒祭神素盞嗚尊 例祭 毎年九月十五日当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない しかし按ずるに南北朝時代(一三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領有していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し 宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき 守護神として足立郡大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき 地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は 人皇四十八代聖武天皇の神亀 天平時代(七二四ー四八)の人なれば その実在必らずしも信ずべきにあらず 重中の後 四代の子孫宮城泰業のころ 泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し 武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが 天正十八年(一五九〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し 江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき 改めて鎮守社として之を祀り 十一面観世音菩薩を本尊とした 蓋し神仏習合によるものであるその後 大正二年三月 荒川河川改修工事が行わるるや 工事遂行のため社殿移転の議が起り その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった しかし その社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので 昭和二十年十月旧地に再建した しかるにその後該地に宮城公園が設置されることになったので 境内の一部と公園敷地の一部を交換して昭和三十三年十月現在の地に新築移転することになり 今日に及んでいるのである因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社が摂社として祭祀されている昭和六十二年正月朔日」