平塚神社でもあります。
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流(しょりゅう)の豊島太郎近義(ちかよし)という人物が平塚城という城館(じょうかん)をつくります。
平塚城は源義家(みなもとのよしいえ)が後三年の役(えき)で奥州に遠征した帰路の逗留地(とうりゅうち)で、義家は近義の心からの饗応(きょうおう)に深く感謝し、使っていた鎧(よろい)と守り本尊の十一面観音を下賜(かし)しました。
近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社(やしろ)を建てて安置したと伝えられます。
これが本殿裏側の甲冑(かっちゅう)塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。
鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城(きょじょう)となりましたが、文明10年(1478)1月、泰経の時代に太田道灌(*1)によって落城してしまいます。
江戸時代、上中里村出身の針医(しんい)で当道座検校(とうどうざけんぎょう)でもあった山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ)は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。
感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。
貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平塚神社は、北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」(しほんちゃくしょくひらつかみょうじんならびにべっとうじょうかんじえんぎえまき)、古文書「平塚神社文書」(ひらつかじんじゃもんじょ)を所蔵しています(非公開)。
立派なイチョウとケヤキの並木が参道にあり、節分には盛大な豆まきが行われます。
*1 おおたどうかん1432-1486年室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
キレイです!
〔平塚城跡/Ruins of Hiratusuka- zyou Castle〕古代から、東京の北東部の、政治や文化の中心だった、西ケ原。
旧石器時代からの歴史の中で、城館があった時代もありました。
<平塚城(平安末期~室町時代)>現在は平塚神社が鎮座していますが、室町時代までは、この地を治めていた豊島氏の居城でした。
平安時代末期に築城されますが、室町時代に、太田道灌公により、落城に至りました。
<豊島郡の郡衙(ぐんが)>奈良時代から平安中期には、豊島郡の郡衙(ぐんが)が置かれ、政治の中心地でした。
郡衙は、古代律令制度の中での、中心的な役場で、その郡を治めていました。
<御殿前遺跡(旧石器時代)>さらに歴史を遡ると、平塚神社に隣接する滝野川公園などを含む場所には、旧石器時代の遺跡も発見されています。
まるで、日本史の教科書のような展開がある場所で、大変感銘を受けました。
〔アクセス〕JR 上中里駅 徒歩3分、東京メトロ西ケ原駅 徒歩5分参照⇒平塚神社(東京都北区)、御殿前遺跡、滝野川公園(東京都北区)
豊嶋郡の郡衙があった場所に平安時代に豊島近義が築城したと伝えられる。
後三年の役の帰路に源義家、義光、義綱の兄弟がこの館に逗留したと伝えられている。
室町時代中期頃に豊島氏は石神井城(東京都練馬区)を築いて本拠とし、練馬城・平塚城はその支城となった。
1477年、江戸城主太田道灌に豊島氏は攻められ敗北、平塚城で再挙するが道灌が攻めてくると戦わず逃亡。
廃城となった。
平塚城の所在は不明だったが、近年平塚神社周辺における発掘調査で城に関連する遺構が多数発見され、その実態は次第に明らかとなりつつある。
ペトロベック(原文)петровец
上中里から滝野川体育館へ抜ける近道です。
階段が急で狭いので、すれ違いには気をつけてください。
平塚神社。
源義家に由来する。
ボーイスカウトの拠点でもある。
北本通り側がメイン参道。
体育館の駐車場へも出入りできる。
上中里駅へ通じる坂道側は階段の出入り口がある。
平塚神社でもあります。
петровец
名前 |
平塚城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
平塚神社に変わっており、都心の住宅地なので、遺構は残っていないが、高台になっていて、隣接している側道や駅側が崖になっているので、雰囲気はある。