名前 |
庵ノ門1号墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
遺跡名:庵ノ門1号墳現在地:三重県松阪市嬉野川北町古代地名:伊勢国壱志郡須加郷現状:川北山の公園に古墳が現存している。
付近に学校の駐車場がある。
墳形:前方後方墳と推定される規模:全長約37m(前方後方墳とした場合)築造時期:3世紀末~4世紀初頭(嬉野町史)※嬉野町史は10期編年外表施設:葺石はされなかった埋葬施設:不明出土遺物:特に無し備考:庵ノ門古墳群の中で最大規模の1号墳である。
未発達な前方部は東を向いているとのこと、後方部の墳頂部に2体の石仏を祀ったお堂がある。
現在の庵ノ門1号墳の周辺には4基の方墳が存在している。
・崖の前にあるフェンスの側に明瞭に墳丘が認められるのが庵ノ門4号墳・庵ノ門1号墳から少し離れた西側にわずかに墳丘の高まりが確認出来るのが庵ノ門2号墳・庵ノ門3号墳と庵ノ門5号墳に関しては分からなかった。
近くにある豊田小学校出身の人に聞いてみたが、川北山は遊び場だったが古墳の存在は聞いたことがないそうです。
それよりも昔は崖の下から貝類の化石が採れたとのことです。
「庵ノ門古墳群は、豊田集落の北側丘陵上に築造され、南西には西山古墳群が位置する。
計6基の古墳で構成されるが、特に1号墳は、丘陵頂部に築造された全長約37mの前方後方墳とみられる。
しかし、後世の改変を受けて墳形が一部不明確となる。
未調査墳で、後方部後面には稜線に直交する一条の溝が巡る。
後方部が歩道のため可変された部分の観察によれば、葺石は認められない。
測量図によると前方部が未発達な墳形と推定され、出土遺物等は全く不明である。
近接する西山1号墳が周囲に小型古墳を伴う前方後方墳で、独立した丘陵頂部に築かれていることから判断して、ここでは不明確な要素が強い庵ノ門1号墳も、同様な2期相当の前方後方墳と推測しておきたい。
」【参考文献・嬉野町史】・一志郡嬉野地域にある5基の前方後方墳は、約5㎞四方の範囲に集中しているのが極めて特徴的である。
このように前方後方墳が密集している地域は、岡山県北部の美作(みまさか)地方の勝央町が知られている。
なお伊勢地方に前方後方墳が造られた背景はヤマト王権ではなく東海地方との関係があるとされる。
大型の前方後円墳が多い伊賀地方とは対象的である。
・一志郡内の前方後方墳は庵ノ門古墳・西山古墳→筒野古墳→錆山古墳→向山古墳の順に築造されたと推定されている(築造順は諸説あり)。
いずれの前方後方墳も被葬者や築造勢力は、古代一志郡を支配した豪族の壱志氏が有力であり、継続的に造られた前方後方墳は累代の首長墓と考えられている。
壱志君は「古事記」によると、孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子で天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする皇別氏族とされるが、一般的には和珥(わに)氏の支族とされることが多い。
和珥氏は「古事記」では春日臣、「日本書紀」では和珥臣とあるが、どちらも同じ和珥氏である。
記紀とは時系列が違うが、和珥氏が後に春日氏を名乗ったので、和珥(春日)氏が正しい。
一志郡の南には、壱志君と同族の飯高君が支配する飯高郡があり、伊勢地方で最大の前方後円墳である「宝塚古墳」が存在している。
古墳時代の伊勢地方では壱志・飯高の両氏が繁栄していたことが分かる。