S字カーブを進むとすぐ左側に見えます。
新吉原花園池(弁天池)跡 / / / .
【ここの方が、吉原って感じのする寺社仏閣】2023/01/20 19時半ごろ訪問吉原神社へ行った帰りに見つけたので【行き方】・ここも、地下鉄の入谷か三ノ輪が最寄になりますが、どっちにしても徒歩10分くらいは歩きます。
・駐車場駐輪場はありません。
・特に入場料などはありません。
【雰囲気】・なんでしょうね、「池」は確かにありますが、いけというほど大きくないです。
ちょっと大きな水たまり程度。
・その水たまりなんかよりも、境内?の中になんだかわからないお地蔵さんや記念碑があります。
それと、禍々しい感じのする宗教的なアート絵画も。
・吉原神社とここ、興味のある方はぜひ両方とも行くと良いでしょう。
150メートル程度の距離ですしね。
町中の一角に有ります。
吉原神社の飛地扱いなのか?震災で亡くなられた関係者をまつるために出来たようです。
明治期の大門を飾っていた弁天様かと間違える観音様が見守ってます。
ポツリポツリと疎らな彼岸花が悲しげに咲いてます。
この辺は江戸時代初期までは湿地帯が多くあったが明暦の大火の後埋め立てられその後に日本橋の遊郭が移って来て吉原遊郭が造られた一部池が残され花園池等と呼ばれいつの間にか弁天様が祀られ吉原の人たちに信仰された。
関東大震災の際ここに多くの人が逃れてきて多数の人が溺れ死ぬという悲劇が起こったその人たちの慰霊碑がここに建立しています。
池は昭和三十四年に吉原電話局建設のために埋め立てられました。
一部がここに残されてます。
入谷のダイソーでの買い物後入谷千束散策の際に訪問ここにあることは知りませんでしたここで多くの人が関東大震災で亡くなられたことを知りお参りさせていただきました。
吉原神社から歩いてすぐです。
吉原の歴史や関東大震災被災者慰霊のこと、また家田荘子さんのこの施設に関する取り組みについて掲示がされており、厳粛な気持ちで参拝させて頂きました。
お詣りした日:令和4年4月30日吉原神社をお詣りして、S字カーブを進むとすぐ左側に見えます。
こじんまりしていますが、小さな小さな池には大きな鯉がいっぱいいます。
本殿は、色彩豊かです。
金の龍の彫り物もあります。
御朱印は、吉原神社でいただけます。
蛇が書かれていて私は好きです。
ランニング途中に立ち寄りました。
吉原の歴史、関東大震災の歴史を感じて厳粛な気分になりました。
弁財池や築山のことは事前に知っていたのですが、菩薩、如来こんなにたくさんあるとは知らず、狭いスペースですが、まだまだ知るべき歴史が多くありそうで、東京の一面を知りたい方にはぜひおすすめの場所です。
吉原神社の方に『奥宮があるのよ』と教えていただき参拝。
ちょうど枯葉のお掃除をされている方がいらっいました。
ありがとうございます。
関東大震災の殉難者を慰霊する観音像があり、その横には無料のお線香、ロウソクがありました。
ありがとうございます。
弁天様の社殿前には、小さな池があり、大きな大きな鯉がいました。
関東大震災で亡くなられた女性をおさめる神社。
独特な雰囲気のある神社です。
吉原神社の弁天様が祀られています。
白衣観音様の存在感も凄いですが、その周りにある十三仏及び守り本尊様の小さな石仏を見逃してはならないでしょう。
弁天池は大きな錦鯉が飼われています。
外見は、何か暗い雰囲気が漂っていましたが、それを打ち消すような弁財天のお社です。
小さな跡地ですがしっかりと池は残っており、鯉が泳いでいます。
忘れられてはならない大切な場所だと実感しました。
コロナも少しずつ思考の中心から離れ始めたある日曜夜、吉原の裏手にある銭湯に行こうといつもと違う吉原の西側の道を通っていたら、不自然に湾曲したカーブに差し掛かる直前、突如場違いにギラついた一角が。
神社仏閣であることは直ぐに判りましたがまるで千と千尋の様な異様な雰囲気に少し訝しげに近づくと、弁財天吉原神社と書かれた登りが。
中に入っても様子は変わらずまたは吉原炎上のワンシーンのよう。
江戸時代の遊女とおしゃべり出来そうです!只でいい物見れました!
吉原神社が管理する弁天社、観音像の方は遊女ではなく、日雇い労働者を追悼する仏様である。
かつての吉原の様子や関東大震災時のこのあたりの被害状況を映した写真などが展示してあります。
なかなか勉強になって、よいところです。
色々と歴史が重なり合って、混在していて不思議なところでした。
綺麗な鯉が泳ぐ池が、弁天池を継承してるのでしょうか。
吉原神社で頂けます 初穂料500円御朱印の弁財天の回りは蛇を表しているそうです小さい神社ですけど境内はいろいろな神様仏様があります。
吉原神社に分祀された弁財天の本宮のある場所で、昔は花街に隣接した大きな花園池という池があり、その中に浮かぶ島には弁天堂があった模様。
関東大震災では吉原大門を閉められたため、多くの遊女が火災で亡くたったようだが、それ以外でもひっそりと亡くなった遊女の数は計り知れない。
そんな遊女達のために観音様が造られています。
ここは周囲と空気が少し違いますね。
江戸時代初期、このあたりは湿地帯で、多くの池が点在していた。
明暦の大火(1657年)後、日本橋にあった「吉原遊郭」が幕府の命令で、この地に移転するため、湿地帯の一部が埋め立てられた。
ここはその際に埋められた池の一部で、いつしか池の畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主の信仰を集て、池は花園池・弁天池と呼ばれた。
だが、大正12年・関東大震災において、多くの被災者がこの池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起きる。
その中には吉原遊郭の人も多く含まれる。
弁天堂付近の築山に建つ巨大観音像は、この時の死者の供養のため大正15年建立。
その後付近の開発の為、池はほとんど埋められ、ここにわずかな名残を残すのみとなった。
趣のある弁天様です。
小さな十三仏、十二支守本尊を見逃さないようにしたい。
運がよければ家田壮子さんに会えるかも。
江戸時代に吉原へ遊郭を移転する際に埋め立てた後の名残だそうです。
また、関東大震災時には多くの方がこの池で亡くなられたそうです。
今は小さな池しかありませんが、弁天様が平和を見守ってくださいます。
名前 |
新吉原花園池(弁天池)跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
今年(2023年)は関東大震災から100年の節目にあたる。
大震災による吉原の大火で弁天池に身を投じ沢山の命が失われ慰霊の観音像を建立とある(人数に関しては諸説あり)。
弁財天の戸口左に「新吉原女子保健組合」の塔があり、感慨深い。