外から二階に向けて手を合わせました。
天台宗 梅柳山 木母寺 / / / .
東白鬚公園近くに有るお寺です。
もとは墨堤通りに面した梅若公園のところにあり、昭和51年(1976)防災拠点建設の為に現在地移転されたそうです。
江戸時代初期には将軍家鷹狩りの場所であり『隅田川御殿』があったが五代綱吉時代に破却され鷹狩り自体も千葉へと移る隅田川東岸なので江戸市外、江戸初期は何もない湿地帯。
ここに祀られている梅若様がそもそもどれだけの人物かはよく知りませんが、これだけの祀られ方をされるということは、かなりのものですかね。
でも、子供ですよね。
もっとよく勉強してみます。
お堂がコンクリートの建物内にあるのも珍しいです。
これも、特別な理由がありそうなので調べてみます。
ほとんど知識が無いのに訪れたのは、墨田北部のウォーキングコースに入ってたからです。
色々な建造物がありましたが、ガラスケースの中にあるのが梅若様と母ですよね。
しかし、本堂の中にどうやって入るのかわからず、手は合わせられませんでした。
御朱印を頂きに参拝。
梅若塚と御本尊の元三大師の2種類の御朱印あります。
寺務所入口に書き置きのものが2種置いてあり、どちらもひとつ300円のお納め。
隣においてある箱にお金を入れて拝受。
つまりお釣りは無いので気をつけて!平安中期に人買いに拐われた貴族の息子、梅若がこの地で亡くなり、それを捜しに東国まで来た母親が隅田川の渡し守から息子の死を教えられ、それを追悼する法要で死んだ息子の霊に会う。
その後息子は消えてしまった…という救いの全くない梅若伝説の舞台がこの木母寺。
しかし正確には災害時の整備事業で元々あった場所からは少し移動している。
ちなみにその後、母親はこの地に定住するものの、息子を失った悲しみに堪えられず浅茅池という池に身投げします。
更に救いの無い話。
その梅若伝説を不憫に思った天台宗の僧忠円によりお堂が建てられたのが木母寺(梅若塚)の始まり。
ちょうどこのお寺の近くを対岸の石浜から鐘ヶ淵方向に向けて古代東海道が通っており、この地は隅田宿という宿場を形成していました。
当時東京湾はこの辺りまで湾口になっていて、石浜は文字通り石のゴロゴロしていた浜だったから石浜なんだそうな。
面影なんて全くないけど。
…というか縄文海進の頃は更に埼玉は大宮の見沼辺りまで海だったというのだから、そうなると面影どころか想像も出来ないのね。
この梅若伝説は能や浄瑠璃になっているので、こちらのお寺は芸能関係にご利益があるのだそうです。
芸能上達の絵馬も授与されてます…というかその絵馬書いて奉納しました(苦笑)
このあたりの石浜、白髭の地域は至るところに梅若伝説の名残を見ることができます。
このお寺を訪ねると梅若伝説の浸透度合いに驚かされます。
それだけでなく、伊藤博文公直筆のとても大きな板碑を拝見したり狭いながらも見所満載です。
平成29年11月10日金曜日に参拝(参拝OK、訪問NG?)。
目的はたまたまネット・サーフィン最中に見かけたこれでした。
なんともはや!まるでみたことのないものが見られました。
蛇の体に弁天様のお顔、まるでレイ・ハリーハウゼンさんがかかわった特撮映画「アルゴ探検隊の大冒険」に出演してくれそうな神々しいかたでありました。
不謹慎ながらも思わずお姿を撮影し、ボディー・タッチまでしちゃいましたむ。
この目を見たらまるで石にされそうなそんな神秘的な感覚をお゛得ました。
また行きますよ、いやまた参拝しますか・・・!
梅若伝説ゆかりのお寺。
墨堤、東白鬚公園の北部にひっそりと建っています。
ガラス張りの梅若念仏堂には芸能を司る神様の技芸天が祀られています。
戦災を逃れたこのお堂のガラス張りの謎は・・・この地域は防災拠点であり、木造建築物は不許可らしく、木造が一切露出していない珍しいお寺なのです。
梅若念仏堂のすぐ横、赤い玉砂利が敷かれた中にあるのが梅若塚で、亡くなった場所として供養した塚と云われています。
梅若伝説の舞台となった場所で梅若の塚も残っているお寺🙏一際梅若念仏堂が目に入り凄く立派✨✨✨✨また色々な歴史上の人達の石碑もあるので必見です😃
名前 |
天台宗 梅柳山 木母寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3612-5880 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
境内にある三遊亭塚、ゆかりの五代目円楽一門会も開かれ小さいながらも由緒も格式もあるお寺さん。
天台宗。
墨田区散策には是非訪れたいお寺さんです。