国立博物館の並びの山手線側、輪王殿前。
2021.3.24NHK BS「英雄たちの選択」で紹介されました。
上野戦争で消失せず残った門。
天皇家から皇子を輪王寺宮(寛永寺のトップ)として迎えて徳川家のために国家安泰を祈らせた。
政治的な公武合体政策。
上野公園の北、国立科学博物館を通り過ぎ、輪王殿(りんのうでん)へ。
寛永寺の本坊(住職の住まい)は、かつては東京国立博物館の地にありました。
戦火により本坊は焼失してしまいましたが、表門だけが残存し重要文化財に指定されています。
現在は、表門の奥に輪王殿が建立され、多目的会館として利用されています。
〔表門:重要文化財〕
寛永寺本坊ですが、慶応4年(1868)の官軍と彰義隊との上野戦争で焼失しましたが、旧本坊表門だけは奇跡的に残存し、輪王殿の前に残されています。
江戸時代の栄華を示す寛永寺の数少ない遺構のひとつで、国の重要文化財に指定されています。
こちらには江戸時代末期の上野戦争の弾痕が残っています。
日暮里駅西にある経王寺と南千住の円通寺(門を移したからある)この弾痕を若い徳川勢が受けたので相当数が亡くなりました。
歴史の証人ですね。
上野駅公園口を出て、科学博物館を通り過ぎ、国立博物館の並びの山手線側、輪王殿前。
元々、この門は今の国立博物館の場所にあったらしい。
僧天海が寛永寺を開山した後、三代目は当時の天皇の子供が就任。
その時、(輪王寺宮)の名前を天皇から授かった。
それ以来、江戸時代を通して、天皇の血筋の人がこの職について寛永寺、日光東照宮、比叡山の三山を管轄していくようになった。
一つには、京都の朝廷と懇意にしておく必要があった事。
二つには、万が一、西から京都の帝を担ぎ上げ、江戸が攻め込まれる事態が場合には、(輪王寺宮)を帝にして幕府の正統性を打ち出す事を目的としたらしい。
幕末の彰義隊は、それを実行する為に、上野寛永寺に入った。
そう考えると、江戸幕府の最初の頃は将軍の取巻きには、優秀な人材が揃っていたと思える。
超合理的な中小企業から超巨大企業の社長まで上り詰めた(信長)。
人たらしのような強烈な人格で天下をもぎ取った(秀吉)。
どちらも個人の最大限の力量で立ち回ったが、後続はなかった。
(家康)の場合は、どうも個人の魅力よりは組織力で三百年の礎を築き上げた気がする。
その一つが、この(輪王寺宮)の制度だった。
江戸の終焉と一緒にこの制度も消滅していった。
名前 |
寛永寺旧本坊表門 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
歴史ある上野の黒門。