石碑などがあるのは東側の御殿山公園の方。
葛西城跡【東京都指定史跡】 / / .
石碑と看板しかないが、ここに城があったんだと想像で楽しむ。
遺構はほとんどありませんが、以前に発掘調査の説明板があります。
葛西城の説明板もあります。
駐車場がありませんので短時間の路駐で見てきました。
城としての遺跡は少ないものの長い歴史を持っているようです。
名は葛西城ですがメトロ葛西駅からだとべらぼーに遠いので要注意。
発掘が行われ今は御殿山公園になってるものの目に見える遺構は皆無です。
元旦神社はどこも人ゴミ。
ここは無人。
贅沢な時間をいただきました。
木守柿に鳥たちが賑やかだった。
普通の公園と言ってしまえばそれで終わりですが、ここに葛西城という城があったことが大事。
と自分に言い聞かせて見てきました。
何となく訪れた場所です。
説明板によると存在を忘れられていた城址らしいです。
木々が繁り日陰も多く夏場は良い休憩場所です。
トイレもあります。
子供と遊びに行きます。
小さい公園なので混んでなくていいです。
城跡は残ってませんが石碑がありました。
今は普通の公園になっています。
遺構なし。
案内板のみ。
築城者、築城年代は不明だが、葛西氏が鎌倉期に城館として築いたとされる。
中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や後北条氏の支配下に置かれた。
1590年の小田原征伐の際に落城。
廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。
魅力的な遊具があるが、人が多いと向かない。
星3つは単なる公園としての評価です。
室町時代に落城したとありますが、築城されたのは平安時代か鎌倉時代になるんでしょうね。
練馬区や板橋区辺りに勢力があった豊島氏のことを調べていたら「葛西氏」というのが出てきたんだけど、その分家か親戚筋になるんじゃないかな?それと、城跡という呼び方は違う気がする。
平安時代であれば荘園領主ということになり、城ではなくて居館と言った方が正しいかもしれない。
それというのも、城と聞けば名古屋城や姫路城のイメージが強いでしょうが、それが建てられるようになったのは安土桃山時代以降で、それ以前は居館か砦のようなものだったそうです。
さらに付け加えるなら、城下町と呼ばれるようになったのは秀吉が大阪城を築城してからで、それ以前は居館に寄りそって家臣たちが住んでいたため「寄居」と呼んでいたそうです。
江戸城にしたって、今の北の丸公園あたりに江戸氏の居館があったらしく、太田道灌はその居館を約10倍に広げたそうで、家康はさらにそれを10倍に広げたと言われてますから、それを考えるとやはり居館が正しいかと思います。
こんな場所にお城があったなんて知らなかった。
歩いてみなきゃ気付かなかったよ。
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豊島清重氏を祖とする葛西氏により築城。
その後葛西氏が鎌倉時代に東北へと移す。
戦国時代には北条家の最前線拠点として里見氏の国府台城を攻撃し勝利した。
1590年豊臣勢により『小田原の役』で廃城となるも江戸時代には家康~家光の代まで鷹狩の宿として使用された。
残念ながら、ここに行ったところでほとんど何もない。
「葛飾区郷土と天文の博物館」のビデオ説明でも見たほうが、この城址の足利時代における意味合いがよく理解できるだろう。
反対側の葛西城址公園も忘れないであげて下さい。
公園は道を挟んだ東西に隣接してあり、石碑などがあるのは東側の御殿山公園の方。
石碑の文章を読めば終戦後間もなく、後の時代を憂えて建てられたらことがわかる。
周辺を散策すれば今でも下町の風情が残り、隣接する青砥神社にお参りして中川の岸部を散歩すれば優雅な一時が過ごせる。
最後の古河公方・足利義氏も在城した戦国時代重要視された葛西城跡。
道路や宅地の開発によって他聞に漏れず遺構は埋没しているため、公園内の看板などで往時を偲ぶ事しかできないが、よく整備された公園である。
名前 |
葛西城跡【東京都指定史跡】 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/bunkazai/iseki/2019/12/aoto.php |
評価 |
3.0 |
青砥駅に向っている途中、公園で一休みと思い立寄る。
城址跡の面影、全く無し。