日光街道では、千住の次の宿場は、越ケ谷でした。
〔日光街道 草加宿 清水本陣跡/Soka Post-town, Nikko Road 〕江戸初期、日光街道では、千住の次の宿場は、越ケ谷でした。
しかし、葦原を開き、沼を埋めて新道が出来、草加宿が誕生。
<将軍が名付け>日光への参拝が頻繁だった徳川将軍は、日光街道を利用しましたが、この新道の完成を喜び、草を埋め立てて道を作ったことから、「草加 」と名付けたと伝えられています。
<おくのほそ道 草加>松尾芭蕉の『おくのほそ道』では、旅に出掛けて歩き始めたが、背中にしょった荷物がそろそろ 辛くなり始める様子が描かれています。
「痩骨の肩にかかれる物、先づくるしむ。
」(痩せて骨ばった肩にかけた物に、最初に苦しんだ)この本陣跡の前を通った時、松尾芭蕉はさぞかし苦しそうな顔をしていたのか、と思いました。
<参勤交代や旅人を想起>この草加宿では、ありし日の参勤交代の列や、旅人たちの姿を、思い浮かべることが出来ました。
〔アクセス〕東武伊勢佐木線 草加駅 徒歩7分。
奥州街道、日光街道の宿場として発展した草加宿。
ここには参勤交代などで大名などの有力者が宿泊する宿として本陣が置かれました。
開宿から宝暦年間(江戸中期)まで本陣であった大川家の「大川本陣跡」、宝暦年間から明治初期まで本陣であった清水家の「清水本陣跡」です。
LPガスの堀川産業さん本社の敷地内に、江戸中期以降目覚ましく発展した草加宿の本陣を大川家から引き継いだ清水本陣があったことを示す碑があります。
綾瀬川の舟運が発達して、草加は大きな町へとなっていったそうです。
訪ねて行って“ありがたい”と思えばありがたいし、“ありがたくない”と思えばありがたくない。
碑の前がゴミ集積場とか、もうちょっと考えた方がいいんじゃないか…的な?
名前 |
草加宿 清水本陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
奥州街道と日光街道の宿場で、特に大名たちの泊まる宿を本陣と言いますが、昔のイメージが沸きませんでした。
やはり品川宿の本陣跡地のようにそのままの地形を公園にして残して欲しかったです。