ここが流山花火大会を見るには良いです。
矢河原(やっから)の渡し跡 / / .
ここが流山花火大会を見るには良いです。
但し原則的には三郷市側の方が有利で、流山市側で花火を見るのならという条件付きです。
写真を撮影するなら、28mmから50mmのズームレンズ。
シャッタースピードを1/50fを4.0ぐらいで良い写真が撮れるとも思います。
この辺り一帯の江戸川の土手の菜の花は、凄いです。
圧倒されますよ。
あまり有名でないので、地元の私達には嬉しいです。
と、ここに書いたらダメですねー。
東葛飾郡誌によると明治12年8月16日に開設許可が出された、船舶2艘・里道の渡しで、「加村の渡し」と届出がある。
またこの加村地区が駿河国田中藩(本拠は現・静岡県藤枝市)本多家(本多正信の弟・正重の系統)の飛地だった事から「本多河岸の渡し」とも言われていた。
「矢河原の渡し」は流山市流山側(加村・根郷エリア)住民複数に聞き取りをしたが殆どその名称を知らず、「近藤勇が連行された」話も昭和五十年代以降に見られる様になった。
その出所には幾つか説があるが、最も信憑性が高いのは現・三郷市の文化財に関する審議会若しくは審査会に出された資料に「近藤勇が乗せられた矢河原の渡し」とあるとされるもの。
埼玉県側から加村地区の河岸を「矢河原」(葦の多い河原)と呼称していた伝承があり、流山=近藤勇と結びつけたものと類推されるが、慶応四年四月三日深夜に官軍宇都宮斥候隊が流山・根郷の酒造家「鴻池」に滞在していた部隊の長を連行した際には、本名が「大久保大和守剛」であって(官軍記、他)、当時は日没後の渡船運行は慣例的にされていない事や、現流山橋(千葉・埼玉県道第29号草加流山線の架橋)に近い「丹後の渡し」が馬船・夜間航行設備を持っていた主要渡船航路であった事、当時既に運行されていた渡船(寛永八年九月二十二日に運行許可)だった事などから、こちらを使った可能性がより高い。
但し、この「加村河岸」そのものは江戸期後半より開設されていたもので、流山と言う街が醸造業の他に水陸運輸で栄えた重要な要素である事は事実。
名前 |
矢河原(やっから)の渡し跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
皆のお散歩コースです。