ちょっと気になったスポットでした。
木造の納屋らしいものがあったので魅かれて川岸に降りると釣りをしている人がいました。
鉄道が整備される明治〜大正まで河川を使った船運は物流に大変重要な役割を果たしていました。
日光街道と接続するこの藤助河岸は大変賑わっていただろうと想像できます。
フィールドワークの帰り道で、グーグルマップで偶然見つけた、ちょっと気になったスポットでした。
越谷市の公式HPによると、旧日光街道と綾瀬川が交差する地の利を生かして、昭和初期まで繁栄した河岸場だったそうです。
当時の水運は、今の高速道路並みの物流インフラだったわけで、関東大震災が無ければ、もう少し長く栄えていたかも知れませんね。
ここを訪れた方は、道路向かいの藤助酒店によって、ご主人から当時の話を伺うと、よりリアリティを感じられますので、是非おすすめします。
(私は個人的に、いい時間を過ごせたと感謝してます。
)
散歩でよく通ります。
夕焼けの時間帯は時間を忘れさせてくれる趣きがあります。
当所の近くに在る史跡・蒲生の一里塚を見に来た道中見かけたので気になりパチリ。
昔の舟運荷卸し場を再現したものだろうと予想してましたが、帰りに案内板を見たら大体あってました。
この辺りの河岸は整備されていて昔の雰囲気も上手く取り入れていて眺望が良いので、草加松原辺りから旧日光街道を散歩する時にチェックポイントの一つにすると良いかもしれませんね。
新河岸川の舟運は有名ですが、ここ綾瀬川も利根川・荒川の瀬替えで関東平野の河川の流路が安定した江戸中期以降では水上交通の重要なルートだったようです。
旧日光街道も、この場所より下流が右岸、上流が左岸であることからこの場所で架橋か渡し舟で綾瀬川を越えていたと思われます。
その意味では陸上交通と水上交通のインターチェンジの役割を果たしていた交通の要衝といえます。
藤助河岸の建屋と道路を挟んだ向い側に藤助酒店という酒蔵のある酒屋があります。
昭和40年代ぐらいまでこのあたりは水田が広がっていたぐらいですから、昔は地元の米で酒造りも行われていたのでしょうね。
江戸時代の街道と河岸場の賑わいのイメージが広がってくる、そんな場所です。
川口市、草加市との境を流れる綾瀬川は、古くは荒川の一分流でしたが、「あやしの川」ともいわれるほど上流部で川筋がいく筋にも分かれていました。
「九十九曲がり」と表現されるはなはだしい蛇行は、流れが緩やかで水量が豊富であることから舟運に適し、綾瀬川舟運は埼玉と江戸・東京を結ぶ重要な交通手段として役割を果たしていました。
藤助河岸(とうすけかし)は、旧日光街道と綾瀬川が交差するという地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つとして繁栄しました。
明治の近代化以降、鉄道の普及などで河岸場が次々と廃止される中で、藤助河岸は繁栄を続けました。
しかし、大正9年、東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、事実上昭和初期に廃止されました。
現在、藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元され、唯一当時の面影を伝えるものとして保存されています。
綾瀬川左岸に渡ると藤助河岸跡がある。
東武鉄道が開通するまでの物流の中心は船運だった。
当時、年貢米をはじめ商いの品は綾瀬川の舟運に依存し、この川には多くの河岸場が設けられました。
護岸には数人の釣り人が竿を垂らしているが「日本一汚れた川」とのお墨付きをもらった川だが、少しづつきれいになって来ているのだが魚も釣れるのだろうか。
水運の歴史を発見できます。
(原文)You can discover history of water transport.
今や高齢者の釣り場として絶賛好評中!わかる人にはわかる、わからない人にはわからない歴史スポット。
でも、これから未来、水運が復活して、ここから水上交通で東京方面などに移動出来たら、とてもイイのになぁ・・・とか、通るたびに思う。
こんなもの、あっても仕方ない。
😢
明治時代、藤助河岸は高橋藤助の経営により繁栄していました。
陸羽道中(旧日光街道)に面しているという地の利を生かし大正2年(1913)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社となり、越谷・粕壁・岩槻から荷車で運ばれてきた特産物を舟に積み替えて東京に出荷していましたが、大正9年に東武鉄道が開通したことで衰微し、昭和初期に事実上廃止されました。
現在この藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元保存されています。
綾瀬川の舟運は江戸時代中期から盛んになり、鉄道が物資運搬の主役になる大正期まで使用されました。
現在の草加市北部の新田駅周辺でとれた年貢米をこの河岸から江戸まで運ぶのに使用されたようです。
旧日光街道沿いの散歩コースとしても紹介されることの多いこの復原された河岸は、お天気良ければ格好の休憩ポイントになります。
綾瀬川のゆったりとした流れは往時と変わらないんでしょうね。
越谷市蒲生の綾瀬川通りにある藤助河岸は、江戸時代の中頃の創立と言われています。
高橋藤助の経営によるもので、当時、年貢米をはじめ商いの品は綾瀬川の舟運に依存していました。
延宝8年(1680年)、幕府は、綾瀬川での用水、引水のための堰止めを禁止したため、堰による荷の積み替えをせず江戸へ直送できることになり、この川には多くの河岸場が設けられました。
明治に入ると汽船も就航するほどで、古利根川や元荒川の舟運が衰退しても陸羽道中(旧日光街道)に面した綾瀬川は隆盛を極めていました。
中でも最後まで残ったこの藤助河岸は大正2年(1913年)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社となりました。
当時、越谷・粕壁・岩槻からの特産が荷車で運ばれてきて、高瀬船に積み替えられて東京に向けて出荷されていました。
この河岸場も、大正9年に東武鉄道が開通して衰微しましたが、昭和の初め頃まで利用されていました。
復元された藤助河岸は、藤助18代当主高橋俊男氏から寄贈されたものです。
※河岸場(かしば):物資を輸送する船の発着施設。
元荒川には「瓦曽根河岸」、古利根川は「増林河岸」、綾瀬川には「よしずや河岸」、「半七河岸」、「藤助河岸」などがありました。
名前 |
藤助河岸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
この場所では、当然ながら夜にかけるヨルシカがマッチしますね。