小貝川付近にて平将門は、叔父の良兼から戦いを仕掛け...
施餓鬼でお世話になりました。
小貝川付近にて平将門は、叔父の良兼から戦いを仕掛けられた。
良兼が陣頭に将門の祖父高望王と父良将の木像を持ち出したため、将門は祖父や父の木像に向かって矢を射る訳にはいかないと一方的に矢を射られて絶体絶命の危機に瀕した。
そんなとき戦場に童子が現れ、味方になりましょうと良兼の軍勢に向かって矢を射始めた。
童子がひたすら矢を放つのを見て将門勢も負けじと矢を放った。
だが戦況を覆すのは難しいとみた童子は将門の許へ走った。
将門は童子を見て驚き、如何なる者であるかと尋ねた。
「わたしは妙見菩薩です。
正しい心を持つ貴方を助けに参りました。
」童子は瀬踏みをして浅瀬を調べ、川を渡って戦場から逃れる道を告げると「わたしは上野国の花園にいる。
」と言い残して姿を消した。
奇跡的に生きて居城へ戻れた将門は、上野国に使いを出して十一面観音菩薩を勧請した。
軍神としての妙見菩薩の本地仏は十一面観音であるといわれる。
禅福寺の御本尊である木造十一面観世音菩薩像は、将門が上野国花園から迎えたものと伝えられる。
将門記に記される承平7年(937)の「子飼の渡しの戦い」の古戦場跡と伝わる場所から遠く離れた筒戸の地に妙見菩薩が祀られてある。
禅福寺がある場所こそ、実は古戦場跡ではないかと思う。
というのも禅福寺近くにある守谷市松並の永泉寺には、将門が戦に敗れて逃げた話が伝わる。
将門は影武者として六個の土偶をつくって、自分と同じ格好をさせて馬に乗せ陣頭で指揮をさせていた。
戦いに敗れた将門は全ての土偶をこの地に捨てて逃げてしまった。
この土偶を哀れに思い、生き残った将門の遺臣が堂宇を建てて安置したのが永泉寺であるという。
また守谷市高野の海禅寺には、将門が承平7年 (937)に京から帰国する途中、良兼と貞盛の両軍に待ち伏せされ身代わりで亡くなったという7人の家来たちの供養塔がある。
小貝川での良兼との戦いで七人の影武者が全て討たれ、将門も命からがら海禅寺に逃げ帰ったのであろう。
のち新皇を名乗った将門は「檥橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。
」と宣った。
この山崎の檥橋によく似ているのが「小目沼橋」である。
筒戸城跡近くにあり、小貝川が大きく湾曲して天然の廓のようである。
ここで敵に囲まれて矢を雨のように射られたら堪らない。
将門は若き日の苦い敗戦から、川が大きく湾曲する場所を軍事上の要衝としていたかも知れない。
将門が亡き父の菩提を弔うため建立した海禅寺には、将門の弟である御厨三郎将頼と将門の母が住んでいたと伝わる。
将門が妙見菩薩を迎えて建立した禅福寺にも、将門の弟である葦原四郎将平が住んでいたと伝わる。
筒戸城には馬場があったようで、将平もまた野生馬の調教をしていたであろう。
千代田区九段にある筑土神社の話では、将門が禅福寺に絵馬を捧げて戦うと、敵は退散し勝利を得たという。
この時の戦いで敵を討った馬が、将門の繋ぎ馬の原型になったとされているとか。
-------------------------✂ キリトリ線------------------------------下総千葉氏が守護神として勧請した妙見菩薩は、上州群馬郡花園の里にある七星山息災寺に鎮座していたものとされる。
高崎市引間町花園にある花園妙見尊であろう。
本尊に関しては「本地七仏薬師如来」とある。
源平闘諍録には妙見菩薩の本地仏は十一面観音とあるが、室町中期頃には「七仏薬師如来」となったようだ。
群馬県子持村の「白北中道遺跡」等にて無数の馬の足跡が発見されたことから、縄文期より馬を調教していた北方騎馬民族が北極星を信仰していたのが妙見菩薩信仰のルーツなのではないかと思われる。
高崎市周辺の旧郡名である「群馬」は大和朝廷に馬を供給する牧場があったためと言われる。
上野国府跡は花園妙見寺の隣である。
将門が上野国を訪れたのは花園妙見寺に参拝するためではなかったか。
-------------------------✂ キリトリ線------------------------------どうやら北相馬の地には北方遊牧民がいたようだ。
取手市の中妻貝塚で発掘された人骨はバイカル湖畔にいた遊牧民ブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した。
D4j8という遺伝子はバイカル湖周辺で生まれ、ブリヤート人と日本人に分かれたそうだ。
韓国人中国人にはほとんどないらしい。
縄文期に群馬あたりにいた北方遊牧民が北相馬にも移住してきてたかもしれない。
遊牧民は大草原で方角を示す北極星を崇敬したとか。
『万葉集』巻二十に県犬養宿禰浄人が下総国の防人部領使少目であったと記述がある。
防人の訓練には俘囚が深く関わったという。
俘囚は乗馬と騎射に非常に長けていたという。
一般の公民百姓らとは違う生活をしており、乗馬、騎射訓練、狩猟などをして日常生活を送っていた。
縣犬養家は俘囚と縁戚関係となって相馬の地に土着していった。
北極星を守護神とし野性馬の調教を生業とした。
縣犬養家の娘であった将門の母には俘囚の血も混じっていたと言われる。
将門は母の実家である縣犬養家が崇敬していた妙見菩薩を守護神としていた。
将門は母方の先祖が上野国群馬郡周辺にて馬を調教していたと知っていたと思われる。
禅福寺に妙見菩薩を勧請したことを花園妙見寺に御礼報告した後に上野国府にて祝宴を開いたのであろう。
将門が上野国府を攻略し、神託を受けて新皇と称したのが、この花園妙見社だったという説がある。
ちなみに将門記には妙見菩薩についての記述は全く無い。
八幡大菩薩と菅原道真公が将門の守護神となったことで妙見菩薩は平良文の守護神になったとされるが、元々は北方遊牧民や縣犬養家の守護神であった妙見菩薩が桓武平氏である良文に乗り換えることは有り得ないだろう。
「日本人バイカル湖畔起源説」で検索。
-------------------------✂ キリトリ線------------------------------哲学者の山崎謙氏が、禅福寺は元は真福寺と呼ばれていたが将門討死後に廃寺となり再興されて禅福寺となったと述べている。
また守谷市野木崎の旧家である須賀家は将門に水軍の将として仕えていて、水運に通じていたため名古屋市の真福寺に将門記の写本(国宝真福寺本将門記)が伝わったと述べている。
禅福寺の旧称が真福寺であったという説は何も傍証がなく裏付けが取れない。
山崎氏は将門記について「この書の筆者である須賀与作」とあまりオーソドックスでない説で論を展開している。
(編集部が欄外註で「将門記の著者は不明である」と付記してある。
)>山崎謙という人が、およそ次のようなことをいっているので、先ずそれを見ると、『将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。
本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったのであるが、そこでは書けない事情があった。
禅福寺は最初は真福寺といっていたが、将門敗死の後一度廃寺となり、その後名前を変えて、禅福寺と称して復興した。
(参考:霞ヶ浦湖族 山崎謙 著)』と述べてある。
(守谷町史より)将門所縁の寺院には「竜禅寺」「海禅寺」「長禅寺」「禅福寺」と「禅」が付くことが多いので、将門は「禅福寺」と名付けたと思う。
将門記の後半を記したのは常陸下総の土地勘が無い人物ではないかとよく言われる。
後半部は名古屋の真福寺で記されたのではないかと言われれば、そうであったかも知れない。
大木山とは守谷市大木にある御霊山のことである。
御霊山は将門の身代わりとして討たれた七人の影武者を葬った場所と伝えられる。
守谷市松並の永泉寺にも七人の影武者を葬ったという言い伝えがある。
両方とも、出家した将門の遺臣が七騎武者の遺体を葬って子孫代々これを守ってきたという。
-------------------------✂ キリトリ線------------------------------禅福寺の十一面観音は、将門の嫡流たる信田小太郎の姉姫(千寿姫)の姿を写したものであるという。
まだ幼少であった将門の嫡子将国は、乳母らとともに大叔父の良文の軍勢に護衛されて、常陸国信太郡浮嶋(現・茨城県稲敷市)に落ち延び、二代新皇を称し再興を図ったと伝わる。
若松とよく似た伝説だが、将門が討たれた時には良文は鎮守府将軍として奥州に赴任しており、将門の嫡子と乳母を護衛する軍勢を差し向けることは出来なかった。
良文が将門の嫡子を浮嶋の地に移して二世新皇を名乗らせたとか考えにくい。
「源平闘諍録」には平良文の五男忠光が「将門の乱に依って常陸国信太の嶋に配流せらる。
」とある。
幸若舞の演目「信田」のエピソードとして創作された話であろう。
千寿姫の貴種流離譚で山椒大夫によく似た物語である。
臨済宗妙心寺派。
名前 |
普門山禅福寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0297-52-4304 |
住所 |
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評価 |
4.4 |
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祖母、お墓参りに行きました。