源海の墓塔と言われる五輪塔等があり必見です❗
平将門所縁の安寿姫(如蔵尼とも)が宍塚の台地に尼寺を創建し、平安末期に現在の地に移転したと云う伝承あり鎌倉時代、隆盛を誇っていた般若寺は、七堂伽藍や五重塔があったと云う般若寺の梵鐘は鎌倉大仏の鋳造を手がけた鋳物師の名工 丹治久友の作で、常陸三古鐘の一つです戦国時代、般若寺は幾度も焼き討ちにあい、壮麗な伽藍も無惨に焼失してしまいます江戸時代初期、三島検校が江戸護国寺の観音堂を移築して、寄進したそうです(観音堂は老朽化した為、昭和52年に解体)義民伝説1780年、旗本 本堂氏の知行地(まだ志筑藩ではない)で、苛烈な治政に領民が困窮して、上訴を起こし、上佐谷村の名主 助六が責任を問われ、磔晒し首となった宍塚には、助六の妹が嫁いで来ていた縁で、助六の家を解体して、その部材で般若寺を再建したと云う(現存している本堂が再建されたものだそうです)助六の梟首は、通りかかった光國公が哀れみ、弔わせたという伝説があります(首塚あり)
土浦市の文化財は、ほとんどが般若寺のもので、小田氏の戦いにより衰退しましたが当時の繁栄は今は想像できません。
「安寿と厨子王」の安寿の寺です。
志筑藩前の本堂旗本領だった時代(般若寺の領内ではありません)、用人の苛烈な治政に領民が困窮し、上訴を起こした代表だった名主 助六は責任を問われ、磔(義民助六伝説)助六の親戚が般若寺に所縁があり、お堂の部材にと、助六の家を解体して材木を運び入れたという通りかかった光國公が、晒し首になっていた助六を哀れみ、弔わせたという般若寺の本堂には、もう助六家の部材はないと思いますが、義民の話しですから掲載しておきます。
宍塚大池からの散歩の途中で立ち寄る。
鎌倉時代には栄えた寺のようですね。
国指定重要文化財の銅鐘もある。
看板には国宝とあるけれど…
寺伝によれば、平安時代の天暦元年(974)平将門の次女安寿姫(如蔵尼)により尼寺として宍塚の台地に創建され、 平安末期に現在地に移されたという。
鎌倉時代には、北条執権の保護を受け、特に忍性菩薩が三村山に来住したため、律宗寺院として栄えたという。
戦国時代になると戦火によって堂塔を失ったが、江戸時代に、地元出身の三島検校が江戸護国寺の観音堂を移築して寄進している。
銅鐘は、建治元年(1275)僧源海が大勧進となり、鎌倉大仏の鋳造にかかわった丹治久友、千門重延が鋳造したことが確かめられ 在銘古鐘として全国的に知られています。
境内にはその他、建長5年(1253)の建立時期が刻まれた「結界石」や「石造五輪塔」「六地蔵石造灯篭」など多くの文化財があります。
結界石とは、寺院等の清浄な区域を標示するための標石で、特に戒律の厳しい律宗では、特定の行法に当たって必ず 区域を限定するために建立したものです。
寺域や修行場など、宗教上特別の意味をもつ地域を示すために建てられた結界石があります。
常陸三古鐘の一つがあります❗その他結界石や、源海の墓塔と言われる五輪塔等があり必見です❗
名前 |
般若寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
029-823-4070 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
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良いお参りができました。
ありがとうございます。