庚申神社とも言われている。
大ケ谷戸庚申塔(おおがやとこうじんとう) 中国より伝来した道教による庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。
この塔には文久三年建立の文字が刻まれています。
(1863年、幕末の新選組が作られた年です。
)庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされ、その報告により寿命が縮んだり、死後地獄に落ちたりすることを避けるため、庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習です。
庚申(こうしん、かのえさる)とは、干支(かんし、えと)すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つで、年、月、日ごとにそれぞれ該当するものがあります。
その庚申講の設立や実施を記念して建てられたのが庚申塔(庚申塚)です。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信として庚申塔の撤去を進め、さらに昭和に入り高度経済成長期以降に行われた道路の拡張工事によって、その多くが撤去されてしまいました。
現在まで残っている庚申塔は、私たちに先祖の習俗、文化を伝えてくれる貴重な文化財と言えます。
なお、この庚申塔(大ケ谷戸バス停のすぐ脇です。
)の前を南北に通る細い道が鎌倉街道(北に向かえば246号線を越えてすぐ右に御嶽神社(一里塚)があり、この道が大切な街道であったことが分かります。
)南西から北東に通る広い道路(旧246号)が大山街道であり、この庚申塔は当時の街道の要所(大ケ谷戸)に設置されたことが分かります。
名前 |
大ヶ谷戸庚申塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
庚申神社とも言われている。
「町田の民話と伝承 第一集」87~88ページによると、この庚申塔の裏には土盛りがあり、天明の大飢饉の際の行き倒れをここに埋め、供養したという。
向かって左側、町谷原方向に北にまっすぐ延びる道路が、南一小に通う道で「学校道」であるが、246や16号でぶった切られている。