かなり遠くからでも目立つ構想タワー。
プルデンシャル生命保険㈱ 本社 / / .
永田町から赤坂見附へ歩いていく途中にある立派なビル。
周りは公園を思わせる造りです。
プルデンシャルタワーの中にある同社の本社。
こちらは、よく行きました。
個人秘書でしたので。
赤坂見附駅近くのプレデンシャル生命保険ビルの前にツリー🎄が飾られました🎄🎄🎄今年は赤の電球がポイントとなってとても素敵なツリーに仕上がっていましたよ👍👍
「プルデンシャルタワー」建築主 三井住友信託銀行管理者 森ビル株式会社元ホテルニュージャパン1982年2月火災で33人の死者を出した。
ビル裏に坂口陽史きよふみメモリアルパーク。
米プルデンシャルの日本法人プルデンシャル生命保険の挑戦の歴史は一人の青年の夢にまでさかのぼります。
プルデンシャル生命保険の初代社長・坂口陽史きよふみは、終戦直前に熊本県・天草に生まれ、その後長崎県の佐世保の貧しい家庭で少年時代を送りました。
時は折しも朝鮮動乱期、前線に最も近い米軍基地を擁する佐世保には、大量の米軍の人と物が送り込まれていました。
基地の町・佐世保で、アメリカの息吹を一身に受けた坂口少年は、遠いアメリカへのあこがれを募らせ、基地に住む従軍牧師の家の戸をたたきました。
そして、牧師から英語を習い、アメリカについて学び、牧師の厚意により、18歳の時に、奨学金を受けてアメリカに留学することになったのです。
まだ一般人の海外への渡航は、ままならなかった時代でした。
坂口少年は、あこがれと決意を胸に、単身アメリカに渡り、ペンシルベニア州レバノン・バレー大学に進学しました。
勇躍アメリカには着いたものの、当初英語がほとんど話せなかった坂口は、かねてから得意だった数学を専攻科目として選びました。
アメリカ渡航時に、貧しい両親が渡してくれたのは片道切符だけ。
坂口は、皿洗いに溶接工という重労働のアルバイトで生活費を稼ぎながら、苦学を続け、大学を卒業、その後、大学院に進みました。
坂口陽史には、学生時代から、生命保険との不思議な縁がありました。
生活のためのアルバイトの激務で憔悴しきっていた坂口を心配して、担当教授が紹介してくれたのが、生命保険会社で、事務作業に携わるかたわら勉強を続けられる、インターンシップという仕事でした。
また、坂口が愛する女性と結婚し、新生活を始められるきっかけを作ってくれたのも生命保険でした。
苦学を続ける坂口を支えてくれたのは、1年の時から共に学んだ同級生のアメリカ女性、ジョアン・コクランでした。
心優しいジョアンは、坂口にノートを貸し、英語を教え、アメリカで苦学を続ける坂口を励ましました。
やがて、二人は大学卒業と同時に結婚しようと約束。
しかし、二人の結婚は簡単なものではありませんでした。
坂口は、卒業を報告するために一旦帰国。
その際に、結婚を報告し、すぐにアメリカに戻るつもりでしたが、なかなか両親に結婚のことを言い出せませんでした。
そして、いざ言い出してみると、予期した通り両親は青い目の女性と結婚してアメリカに住むなどということに大反対でした。
ジョアンは、坂口さんの両親が反対するであろうことを予期していました。
そこでジョアンは日本に戻る坂口に、両親が、将来のためにと自分にかけてくれた生命保険の解約返戻金を持たせたのです。
坂口は、ジョアンが持たせてくれたお金でアメリカに戻り、残りのお金で、引越、家具を買い、二人の新生活を始めたのでした。
若き坂口陽史夫妻の新生活のスタートを支えてくれたのが、生命保険だったのでした。
そういう縁もあって、大学院へと進んだ坂口陽史が目ざしたのは、生命保険における数学の専門職アクチュアリーという資格でした。
そして、働きながら勉強を続けた結果、アメリカ人ですらなかなか合格しないといわれる超難関、米国アクチュアリー試験に日本人第一号として合格したのです。
18歳でアメリカに来たときにはアメリカの中学生並みにも英語を話せなかった青年が、今や、アメリカで高度な専門職としての資格を獲得したのでした。
その後、坂口陽史は、アメリカにおいて、生命保険の専門家としてキャリアを確立、いくつかの生命保険会社で働き、また独立したコンサルタントとして活躍しました。
1970年代に日本進出を検討していた当時世界最大の生命保険会社米国プルデンシャルにスカウトされ、日本に戻り、プルデンシャル日本法人の設立を担当することとなりました。
1979年プルデンシャルはソニーと合弁でソニー・プルデンシャルを設立し、坂口は、同社の副社長、その後社長となりました。
1987年プルデンシャルとソニーは合弁解消し、プルデンシャルは単独で日本法人プルデンシャル生命保険を設立。
坂口は社長、その後会長となりました。
坂口はゼロからスタートした生命保険会社を大きく育て上げたのです。
1998年坂口はその功績を認められ米国プルデンシャルの役員兼国際保険部門の最高経営責任者となり、日本のみならず韓国、台湾など、世界中に生命保険ビジネスを展開して成功させました。
2002年坂口陽史は惜しくも58歳で急逝しました。
2002年12月竣工したプルデンシャルタワー裏手には坂口陽史の業績を讃えキヨ・サカグチ・メモリアルパークが造られました。
またプルデンシャル生命保険はKiyo Sakaguchi奨学金を創設し坂口陽史と同様の夢を持つ若者を支援しています。
元ホテルニュージャパン藤山愛一郎率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、当初このホテルは高級アパートメントとして計画されていた。
しかしその後突如としてホテルへと計画変更され、1960年に開業する。
当時は1964年東京オリンピックの開催を目前とした第一次ホテルブームが巻き起こり始めていた時代であった。
高級路線のスタバ、コンビニコーヒーのローソンとあって、コーヒー飲みたいならいいですよ。
名前 |
プルデンシャル生命保険㈱ 本社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5501-5500 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.3 |
かなり遠くからでも目立つ構想タワー。
高さ158m 地上38階。
しかしP社の営業マンって10m先からでもわかるよね。
ブルーのピタピタスーツに原色のネクタイ。
頭はサイドを刈り込んでいて、背筋はピッと伸びている。
靴やベルトは黒オンリーで、なんなら時計のベルトの黒革。
そこいらの社長より社長っぽいわ。
他の外資保険会社は割と普通なのにね!