現在は墓地になっております。
小弓城跡(南小弓/生実城跡) / / .
No.526小弓城跡北小弓城と合わせて生実城(おゆみじょう)とも、北小弓城と区別し南生実城とも言う。
現在の城跡は宅地と田畑になっており小高い丘の上が主郭で、城跡の説明板は主郭跡の墓地に設置されています。
丘の麓の八坂神社から歩いて行くとよい。
【歴史】上総千葉氏の庶流原氏が築城するが、永正14年(1517年) 真里谷城主武田信保が古河公方に対抗するために、足利義明を擁立し小弓城に入り小弓公方と称した。
天文7年(1538年)足利義明は国府台合戦で北条氏綱軍と戦い討死し、小弓城も北条の手に落ちた。
その後に原氏は新たに生実城を築いて居城とした。
北小弓城と小弓城があるが、一体として生実城と考えられています。
足利義明公 関東に覇を唱え国府台合戦で戦死 そこから喜連川藩につながるのだからロマンですね。
あちこち地形の起伏は見られますが古い城ゆえ城郭遺構と決めつけるのは避けます。
近くにある埋蔵文化財センターは興味深い展示物が多いのでぜひ立ち寄りましょう。
なおこの地がかつての下総/上総国の境界となります。
城跡らしい点はパッとみた感じ何もありません。
後方にお墓があるだけでした😺歴史が好きか、城跡マニアか私の様な暇を持て余す人間が行く所ですね😸もし、こちらに行かれるの場合道がとても狭いので車は曲がり角で擦るリスクがあります。
バイク🛵か自転車がベストな選択でしょう。
大百池公園の西側に位置する標高20 - 25メートルの台地上にあり、古城、東堀、城出下などの字名が城内外に残されている。
主郭は、南西部の字古城の場所で、千葉市が立てた案内板がある。
城域の南端には八剣神社が存在しており、周辺に小規模な空堀が残っている。
今はお墓が有るだけで、城跡は確認出来ません。
すっかりお墓になっています。
案内板によると、原氏が北小弓城に移る前に守っていたとのこと。
小弓御所の跡。
小弓公方、足利義明公が居城にした城です。
今は城跡の看板でしか城跡をしのべません。
戦国時代に足利義明がこの地に住まい、小弓公方と称して小田原の北条と市川の国府台で戦ったが戦死してしまった。
生き長らえていれば、この辺も変わっていたかもしれない。
ゲームの信長の野望にも出てくる。
小弓城主原氏と連歌師宗長室町時代後期の永正6年10月(1509年)小弓城に、当時全国的に著名であった連歌師宗祇(応永28年(1421年)~文亀2年(1502年))の弟子、柴屋軒宗長(文安5年(1448年)~天文元年(1532年))が来訪し、連歌会を開催したという。
連歌とは、和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)を多人数で即興で詠み繋ぎ(百句が基本…百韻・長連歌)、その展開の変化を楽しむ、高度な教養を必要とする娯楽である。
武家の嗜みの一つとしても流行していたのだという。
職業としての連歌師(連歌の創作や指導・連歌会の運営)はそれまで、京都での活動に終始した為、十分に生計を立てる程の収入は望めなかったが、この頃の世相を境にして(先の応仁の乱の後、室町幕府の求心力の低下によって、各国守護を務める諸大名が幕府体制の下での京都滞在をやめ、自らの国元に帰国するという、いわゆる守護大名の在国化が進んだ。
)、各地の在国守護や守護代、有力国人等の許に赴いて連歌会を開くといった行動範囲の広がりを見せた。
つまり今風に言うと『連歌ライブツアー』を開催して諸国を巡り、興業収入を得ていたということだろうか。
宗長は、当時の小弓城主原胤隆に招待され、この地にやって来たのだが、戦乱で不穏な時勢によるのか、目的の一つだった清澄寺参詣を取りやめ、さらに南方の上総安房へは赴かず、再び下総の西へと歩みを進めた。
(東路の津登)それから8年後の永正14年(1517年)、足利義明(後称小弓公方)を奉じた上総武田氏の攻撃により、原胤隆、小西原胤継・友胤父子(恐らく小西より援軍)らは敗北し、小弓城を奪われた。
連歌の宴と小弓城落城の事象の対比が、戦乱の世の哀れを感じさせる。
余談ではあるが、この際、小弓城を追われた原友胤は、何故か領地の小西に帰らずに甲斐国に奔り、甲斐守護武田家の家臣となった。
友胤嫡男は虎胤(原美濃守虎胤)で、武田信虎、武田晴信(信玄)に仕え、その勇猛さから「鬼美濃」と称された。
江戸時代には、武田二十四将の一人に数えられ、絵画や浮世絵、講談等にその姿を垣間見る。
現在は墓地になっております。
ところどころに虎口ぽいものを確認することはできますが、当時を偲ぶ手がかりはあまり残されていません。
小弓城(おゆみじょう、生実城とも)は、千葉市中央区にあった日本の城。
鎌倉時代初期の創建といわれ、戦国時代に足利義明が千葉氏重臣原氏を追って城を奪い「小弓御所(小弓公方)」と名乗った。
が、北条氏に滅ぼされる。
その後、城を奪還した原氏は城の北側に新城を造り、字を「生実城」と改名した。
江戸時代には城跡に陣屋が置かれて生実藩の政庁となった。
遺構は少ないない。
歴史は感じるけど、お墓。
名前 |
小弓城跡(南小弓/生実城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
城巡りのため訪問しました。
この看板ないと全く分かりませんでしたが、往時もこのような雰囲気なのではないでしょうか?