御祭神は藤原鎌足・藤原道真・宇賀御魂命。
藤原鎌足の生誕地との伝承がある地です。
藤原家の氏神である鹿島神宮の近くなので、ありうる話なのかもしれないです。
藤原鎌足だけでなく、他にも、菅原道真や宇賀神の名前もありますね。
まさに、「知恵の神様」である、「エンキ」の神社です。
小さな祠があります。
この祠の下を覗くと、なんと、「蛇」がいます。
やはり、「爬虫類の神様グループ」でした。
まさか藤原鎌足が東国で生まれたとは知らなんだーって一説によるとやけどだけど鹿島神宮のすぐ傍らでってまんざらウソでもなさそうそれにしては栄華を極めた藤原氏の祖である鎌足の出生地跡の神社にしてはこぢんまりしてるような…はてさて真実はいかに。
鎌足神社は鹿島神宮の西側にあります。
鎌足の誕生地は一般的に、奈良県と伝わりますが…鹿島が誕生地との言い伝えも多く残っているそうです。
鎌足の父・中臣御食子は鹿島神宮に仕える神官でした。
御食子は、妻といっしょに帰郷し鹿島で鎌足が生まれたそうです。
鎌足が二歳になった頃お母さんの夢に白狐があらわれ【この子は、将来国のために立派な仕事をする人です…しっかり育てなさい…】と伝え鎌を授けました。
夫婦は白狐のお告げを信じ都で学問をさせてあげたいと考え…後に鹿島をあとにして再び都へ向かったそうです。
白狐が授けた鎌は神社の御神体として保存されているそうです。
鎌足の系譜をさかのぼると鹿島周辺の地名のあるお名前の方もいるので鹿島誕生説もありかな…。
それから…鎌足の【足】って字が個人的に気になっていてまだ調べている途中なんだけど…古代は【足】【根子】の字がお名前に入る方や神社の祭神になった方々は【高句麗国】直系と言われてるみたい。
鎌足出自説で知られているのは古代高句麗国を建国するときに協力した、百済王族で…高句麗建国後に分かれて南下してできたのが百済国。
この百済王族が鎌足と深い関わりがあるとゆう説です。
藤原とゆう地名や姓は朝鮮半島南部(昌寧伽耶)の【比自火】ヒジボル=【藤原】フジバルで天皇が伽耶の地名を鎌足に下賜したとゆう説。
もあるんですって。
この神社は中臣御食子の屋敷があった場所と伝わります。
創建年は不明。
祭神は【藤原鎌足】【菅原道真】【宇賀御魂命】です。
●古墳の写真は韓国【昌寧郡】に残っている古墳群です。
鹿島神宮から1キロ位の所にあります。
とても小さな神社でした。
何故、関東の端の地に鎌足を奉った神社があるのか不思議ですね。
(鎌足はこのちで生まれた伝承があるそうです。
)アマテラスより古い神様を奉った鹿島神宮、大化の改新をなした鎌足。
鹿嶋は歴史的にもとても面白いところです。
御祭神は藤原鎌足・藤原道真・宇賀御魂命。
境内の説明板を引用しますと「鎌足神社境内地は,古来より藤原鎌足の誕生の地とする伝承が残っているところである。
藤原鎌足の生誕地には,当地と奈良県橿原市の二つの説がある。
いつごろ建てられたのかは不明であるが,江戸時代から明治時代にかけてまとめられた,常陸国の歴史と地理の大著「新編常陸国誌」の鹿島郡・宮中の項に「鎌足社」があり,当社が鎌足の生誕地であるという説が紹介されており,この地域が江戸時代から鎌足ゆかりの地とされていることがうかがえるところである。
境内には明治25年に建てられた「大織冠藤原公古宅址碑」という石碑もある。
」中臣鎌足(後に藤原姓を賜る)といえば,中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我氏を滅ぼして律令国家を築いた大化の改新(645年)の主役,後の藤原氏による興隆の祖であり,義務教育を受けた日本人で知らない人はいないでしょう(忘れちゃった人は数多いかもしれませんが)。
当社の創建年代など御由緒は不詳ですが,鹿島神宮は元々,中臣氏一族が大宮司職にあって勢力圏内としていた地。
当社域が鎌足誕生の地と比定ですが,あってもおかしくはありません。
比較的わかりやすい。
駐車場はなく、路上に止めて見学するしかない。
県道238号線”大船津”交差点の東側に有ります。
中臣鎌足の生地である鹿島の下生(しものう)には、常陸の多臣流中臣氏を祀る「鎌足神社」がある。
中臣鎌足は幼少期を上総矢那の地で過ごした。
鎌足の母智仙は上総望陀の矢那草敷(くさじき)の猪長者(いのちょうじゃ)と呼ばれる馬来田の大伴氏の娘。
高倉観音から「遠祖大伴連武日(たけひ)のように常総にある日高見国の『鹿島へ行きて日天を拝せよ』」との詔を受け、鹿島神社の祭官である多臣流中臣氏とのあいだに鎌足をさずかった。
父方の多臣流中臣氏も母方の馬来田の大伴氏もともに遠祖を百済系の天孫族とする名族で、大和の物部氏の衰退後、常総の日高見国領域から蝦夷討伐を舞台に台頭する。
@房総風雅史 小倉光夫著p144
名前 |
下生鎌足神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
4.0 |
【当社】は、古代最大氏族藤原氏の始祖である中臣鎌足、藤原鎌足の生誕地であるとの言い伝えのある社である。
【所在地】は、茨城県鹿嶋市宮中3354(〒314-0031)である。
町名が宮中で鹿島神宮と同じである。
やはり神宮との繋がりの濃さを感じる。
【下生】(シモノウ)が冠されているが、これは小字から来ているようだ。
ここで気になるのが、「大生神社」(潮来市814(〒311-2402))である。
祭神は、健御雷之男神 (タケミカヅチノオガミ)。
表記は異なるが、鹿島神宮祭神(武甕槌命)に同じ。
同宮の物忌が執り行う祭礼は指折り数える程度あるがこの一つが当社祭礼であり唯一である。
これらを総合すると、藤原氏は古代氏族多氏の末裔とも見られているが、うなずけることでもある。
【父】の名は、中臣御食子(ミケコ)であり、鹿島神宮の神官とのこと。
【鎌足】は、稲刈りの季節に生まれたので、鎌子と名付けられた。
彼がニ歳になった頃に母親の夢に白狐が現れて、彼が将来国のために尽くす人材となる旨を告げて「鎌」を授けられた。
【御神体】は、「鎌」で木箱に収められているようだ。
【創建】は、未確認である。
【御祭神】は、藤原鎌足、菅原道真及び宇迦之魂命の三柱である。
【御朱印】は、未確認である。
【接道】は、西の一之鳥居から鹿島神宮に向かい、宮中通り(国道51号線旧道)との交差点を斜めに横切ると左手に当社の鳥居が見えてくる。
【駐車場】は、未整備なので、駐車スペースを見付けて路肩等に交通に支障が生じないように配慮して駐車する。
神社の先に「下生区集会所」があるので、ここを借用するのも方便かもしれない。
【トイレ】は、未整備なので、ここに来る前にコンビニ等で用を済ませて来るのがベストである。