当地は急速に宅地開発が進んでいるようで、当時を偲ばせるものは見当たらない。
モノの本※によれば、どこかに土塁跡があるはずだが、三十年前の情報。
それらしいところはあるにはあったが、既に失われた可能性もあるな、と。
当地は、旧大宮市内で最も標高が高い位置(18.8m)とされている。
「大和田陣屋」と呼ばれるのは江戸時代からで、戦国時代は「伊達城」と言われていた。
以下、伊達城について。
伊達城は、岩槻太田家家老、伊達与兵衛房実が住居兼防衛施設として利用していたとされ、寿能城と軍事的補完関係にあったと推測されている。
Googleマップのポイントだと分かりにくいが、城域は広く、西は崖沿い、北は大宮商業高校、東は天神社、南は街道沿いの辺りまであった様である。
特に伊達城跡の北側には、かつて見沼(吉宗の時代に干拓された沼。
)が入り込んでおり(高校の校庭・運動場の辺りか。
)、そこに船着き場があったと伝えられているそうだ。
以下、大和田陣屋について。
小田原征伐によって当地は徳川の天領地になった。
小田原北条氏に味方した岩槻太田氏も破れたが、征伐の翌年、当地は伊達氏に知行された。
以降、伊達氏は、当地の領主として明治維新に至るまで存続。
伊達氏は、元々、江戸幕府誕生以前から、この地を支配していたためか独特な村政を敷いたとされる。
『大宮市史第三巻下(p215)』によると、領内には年貢納入のための七つの組があり、その組のトップが名主役を月番のローテーションで務めた。
その後、「代官」と称される村役人も出現する。
ただ、どんな役割を担ったのかは不明。
※大宮市立博物館『寿能城と戦国時代の大宮』(平成二年)
特に何もありませんが、家の造りは立派です。
大和田で一番富士山が良く見える場所です。
富士山🗻
名前 |
大和田陣屋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒337-0053 埼玉県さいたま市見沼区大和田町1丁目371 |
評価 |
2.8 |
いまはもう何も残っていない模様。