鳥居から本殿まで凄く距離があります。
長い長い参道の奥に拝殿があり、風音と春の兆しを感じた野鳥の囀りが聴こえる静かな境内です。
資料によると、沿革 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。
明治十二年(1879)、岡部神社と改称し、現在に至る。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。
岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。
後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。
とあります。
こちらも岡村の聖天社となりますが、岡部町当時の案内板では岡廼宮神社に比べて由緒の説明が少ない様です。
それでも、岡部神社北下の地は、岡部六弥太忠澄が館を構えた地で、その岡部氏館跡には近く、「古城」「本屋敷」などの小字名が残っているそうです。
また、そこから南方の当社まで、幅八間の参道があったとも言われています。
ところで、当社の現在の参道は長く、国道17号線の傍に一の鳥居があり、その社額には八坂大神とあり、すぐ次にある二の鳥居には岡部神社とありました。
ちょうどこの辺りは中山道岡村の入り口にあたり、病疫消除を祈願する八坂社がここに鎮座することが伺えます。
17号(旧中山道)から参道が伸びる神社。
鳥居の一つには「八坂」の字。
鳥居から本殿まで凄く距離があります。
名前 |
岡部神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
048-571-4588 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.1 |
岡部神社(おかべじんじゃ)御祭神 伊弉諾尊 伊弉丹尊由緒岡部神社は、従来は聖天宮と称され、本殿には勘喜天の木像が安置されています。
明治十二年(1879)岡部神社と改称し現在に至ります。
岡部神社は、「岡部六弥太忠澄」の祈願所とも言われ、寿永年間(1182~1184)忠澄は一ノ谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられています。
後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は当神社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月の例祭に参拝しました。
祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願しました。
昭和二十年代(1945)以前の夏祭りには、御輿が出てたいへん賑やかなものであったと言われています。
この御輿は、岡部町指定文化財となっており、現在は神社境内の倉庫(御輿やどり)に保管されています。
御輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板葺となっています。
このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴・ひばり・昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されていて、豪華なつくりとなっています。
(境内案内板より)「岡部六弥太忠澄」岡部忠澄は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士です。
岡部氏は、武蔵七党のひとつ猪俣党に属し、祖父の猪俣六太夫忠綱が岡部に居住して岡部を称したことに始まっています。
忠澄は、忠綱から数え三代目にあたります。
忠澄は、源義朝の家臣として保元・平治の乱で活躍しました。
義朝の子・源頼朝が伊豆で挙兵した際に参陣し、以降の平家との争いのなか、元暦元年(1184)一ノ谷の合戦で平家の名将・平忠度を討ち取りました。
「平家物語」に登場する岡部忠澄は、治承四年(1180)義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなりました。
木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永三年(1184)一ノ谷の戦いで平忠度と組み討ち、討たれそうになりましたが、郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形勢が逆転し、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られました。
忠澄は箙に結び付けられた文から、自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだといわれています。
忠度を討ち取った忠澄でしたが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立しました。
その後、五輪の塔は慶安二年(1649)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築されています。
(「深谷市HP」及び「Wik」参照)