報佛時に河和田城址碑や土塁の跡が確認できます。
報佛時に河和田城址碑や土塁の跡が確認できます。
また、天徳寺には冠木門があるので一緒に周ると良いかと思います。
河和田城は,建武3・延元元(1336)年,馬場(水戸)城主大掾氏の家臣・鍛冶弾正貞国(後の河和田入道)によって水戸城の支城として築かれた。
嘉慶元・元中4(1387),難台山合戦において,大掾氏の当主が幼少であったことから十分な働きが無かったことを理由として,河和田城は,戦で功績があった江戸通高に(鎌倉公方の命で)与えられた。
応永33(1426)年,水戸城主大掾満幹が一族・家臣を連れて祭りのため府中へ出立した不在の隙を突いて江戸通房が水戸城を奪取し,河和田城には家臣の春秋氏を入れた。
関ヶ原合戦後の天正18(1590)年,佐竹義重・義宣親子が水戸城を攻略し,同時に河和田城も落城。
以後,廃城となった。
現在の河和田小学校・報佛寺・天徳寺・八坂神社などが立地する広大な敷地(東西350m・南北520m)が河和田城跡となり,現代でもあちらこちらに土塁や堀跡が残っています。
本丸は河和田小学校のあたりで,報佛寺山門あたりが大手門だったとされ,そこに「河和田城跡」の石碑が建っていましたが,別説では八坂神社裏が大手門という説もあり,確かに御本殿裏から竹林を通る小径が北へ続いていました。
時間がなかったので,探検はここまででしたが。
なんとなく,平氏(平国香の流れ)である常陸大掾氏,藤原氏(藤原秀郷~那珂氏の流れ)である江戸氏,源氏(新羅三郎義光の流れ)である佐竹氏と,常陸を代表する勢力三つ巴の争いの地となった河和田城,当時はいかなる豪壮なる城であったのだろうかと思いをはせました。
城跡ですが、お寺になっています。
堀の跡はわかりますよ!今はさくらの季節。
🌸で有明らしいので、行こうと思います。
名前 |
河和田城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
報佛寺の周りに土塁、堀がよく残ってます。