流れ公方、足利義材の放生津幕府の遺跡。
鎌倉時代頃から置かれた守護所。
明応3年、神保長誠は明応の政変で幽閉された将軍足利義材を放生津に呼び寄せ、上洛の準備をするほどだったが、永正17年(1520)神保慶宗が長尾為影によって討たれ、放生津城も落城。
現在、遺構はない。
小学校グラウンドではかつて発掘調査が行われており、堀跡などが見つかっている。
なので、グランドの盛り土は土塁跡ではないので誤解なきよう。
サイクリングの途中寄りました。
地図が少しずれていたので修正しました?次は古国府城趾に向かいます。
とやま城郭カードに選ばれてます。
跡地は放生津小学校になってます。
石碑と説明板があります。
小学校の廻りにあるのは土塁っぽいですけど、当時のものではないのかな…(^_^;)
こちらに建ってる放生津小学校は母校です。
当時は木造の校舎でつっかえ棒がしてありましてあって、とても趣のある懐かしい造りでした。
校舎が30年前に建て替えられ、こちらの城跡も知らない生徒も多くなったのではないでしょうか。
お城も人も壮絶な最後を迎えたと伝わってます。
流れ公方、足利義材の放生津幕府の遺跡。
彼は管領、細川政元に幽閉されたのち、脱出すると畠山家臣の神保氏をたのみ、この地にやってきたという。
残念ながら、城の遺構は残っておらず、案内板と石碑によってわずかに往時を偲ぶことができる。
案内板によると、鎌倉時代には執権北条の一族で、越後守護であった名越氏がこの地に拠っていたという。
付近には二の丸橋という地名も残る。
また、近世には加賀藩の蔵屋敷があったという。
この地がいかに交通の要衝であったかを物語る場所。
石碑と説明看板のみ 城主や時代背景多めで城自体の説明はちょっと 縄張りの実位置や発掘溝位置は書いていない 元の地形も恐らく無い大型の松桜が茂り学校グラウンドの土手も有り緑地としては綺麗。
放生津城跡。
正応3年、1290年、越中守護・名越時有が守護所として築城しました。
鎌倉時代の乱世の渦中で一族が終生に至り居住しました。
今は住宅地の一画に石碑と案内板が建っていますが遺構は見られません。
道の駅新湊に隣接する博物館に資料がありました。
入館料いりますが…。
名前 |
放生津城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
歴史好き以外興味ないだろうな、、