特に歴史的由来があるわけではなさそう。
東京都指定旧跡の分倍河原古戦場の石碑があります。
また、東京都教育委員会がその由来の説明標識を設置しています。
石碑しかありませんが、この戦い自体はとても重要なものです。
元弘の乱の際に、新田義貞軍が幕府軍に壊滅的打撃を与えた分倍河原の合戦の古戦場碑。
この合戦は周辺の小学校の校歌にも出てきたりします。
石碑以外には何もない。
まあ野戦跡は、鎌倉どころか戦国も幕末も大体こんな感じなので仕方がない。
逆に言うと、後世に分倍河原がかつて戦場であったことを伝える上では重要な石碑。
ここ分倍河原は、新田義貞公(源義貞)が、鎌倉北条氏討伐の為に、戦った古戦場で、半幕府軍、新田義貞軍の勝利に、終わった、古戦場です。
とても良かったです。
新田義貞頑張りました。
分倍河原の戦いは、鎌倉時代の元弘3年(1333年)に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原で北条泰家公率いる鎌倉幕府勢と、新田義貞公率いる反幕府勢との間で行われた合戦で、奇襲を仕掛けた新田勢が勝利した戦いと伝えられる。
兵どもが夢の跡。
夢のまた夢。
新田義貞が北条軍に一度敗れた場所。
新田川沿いの閑静な緑道になっています。
散歩にはもってこい。
ここから続く遊歩道にはほとんど外灯がないため、夜間はとても暗く痴漢も出たようで独り歩きは危険です。
日中も年間通して人は多くありません。
新型コロナ流行中の現在(2020/04/30)は、学校が休みの子どもたちの姿はいつもよりも増えています。
関東にここまで古い遺跡があるとは意外でした。
上野国から鎌倉を目指して南下した新田義貞が何とかの合戦の末、ここで北条泰家を打ち破り鎌倉突入に至った歴史上非常に重要な都地である。
古戦場碑には、傍系から新田を名乗る方の書がかけられていたが、それ以上にここで行われた合戦に思いを馳せるほうがいいと思う。
ただし当時の面影は一切残っていない。
そこまで大したものがあるわけではないが、課題をやるときに写真を貼るならおすすめ蚊に刺されやすいので注意。
鎌倉街道を南進する新田義貞軍が鎌倉幕府の北条軍を破った古戦場です。
鎌倉幕府は多摩川を北から来る敵に対する第一防衛ラインと捉えていたのでしょう。
It is an old battlefield where the Yoshisada Nitta Army that goes southward of the Kamakura Route broke the Hojo army of the Kamakura shogunate. The Kamakura Shogunate would have regarded the Tamagawa River as the first line of defense against the enemies coming from the north.
車道からちょっと入ったところに、大きな石版が建っている。
戦場跡といっても当時を偲ぶものは周囲にないので、わざわざ見に行くほどではない。
なぜこの場所に古戦場碑があるのかについては、特に歴史的由来があるわけではなさそう。
昭和10年に新田義貞の子孫がここに碑を立てたのだそうです。
新田義貞公の野望が思われます。
戦は強かったが人望がイマイチだったのが残念ですね。
Wikipediaによると、久米川の合戦から退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始ようとした。
先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢10万騎が加わり、士気が高まった。
一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。
5月15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突する(分倍河原の戦い)。
だが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。
この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。
しかし、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で新田義貞に加勢した。
翌5月16日早朝、新田義貞は分倍河原に押し寄せ、幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。
この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。
この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。
住宅街の中の遊歩道に石碑が立っていると言った感じで、古戦場を想起できる様な立地ではありません。
とりあえず解説板はついている。
楽しいけど、蚊に刺される。
名前 |
分倍河原古戦場碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
上野国から鎌倉を目指して南下した新田義貞が何度かの合戦の末、ここで北条泰家を打ち破り鎌倉突入に至った歴史上非常に重要な都地である。
古戦場碑には、傍系から新田を名乗る方の書がかけられていたが、それ以上にここで行われた合戦に思いを馳せるほうがいいと思う。
ただし当時の面影は一切残っていない2021.4.10再訪2022.8.19