履物店を営んでいました。
竣工式には氷川神社からも六名の神職が出向されたそうで、戦艦武蔵の艦内には氷川神社が分祀され、武蔵神社と命名されていたとのこと。
『この世界の片隅に』を見るとこういう慰霊碑が違って見えてきますね。
母親の祖父が戦時中、武蔵に乗艦していました~自分が高校生の頃迄、履物店を営んでいました。
一度は訪れたいとおもっています。
戦艦武蔵の中に、武蔵一宮氷川神社の分祀もあったとのこと。
武蔵一宮氷川神社の三の鳥居をくぐると左手にある❬戦艦 武蔵❭を顕彰する碑。
戦艦武蔵は第二次世界大戦中に旧日本海軍によって建造された当時世界最大級の戦艦。
この名は武蔵一宮氷川神社よりとられたもの。
艦内神社には氷川神社が分祀され❬武蔵神社❭と命名して祀られていたそうです。
昭和19年(1944年)米海軍の航空攻撃を一手に引き受けフィリピン近海であるシブヤン海に沈没しました。
豪快でゴツゴツとした荒々しい石にキリリッとした素晴らしい文字が刻まれています。
合掌。
第2次世界大戦中に建造さてた大日本帝国海軍の大和型2番艦で最後も大型戦艦。
残念ながら最初の航海で撃沈された。
その英霊を慰霊する碑。
武蔵国からの由来の艦名で、実際この神社の祭神を艦内に分祠されていた。
氷川神社境内三之鳥居をすぎて左。
大宮氷川神社境内片隅にある石碑です。
ややもすれば見逃すような位置にある石碑、当初なぜ、大宮氷川神社に戦艦武蔵の碑があるのだろうと不思議に思ったのですが、解説石碑を読めば、戦艦武蔵の中に祀られていた社は、大宮氷川神社を分祀したもの、そもそも武蔵という名もこの神社が所以らしい。
その縁から大宮氷川神社が顕彰碑の設置場所に選ばれたそうです。
武蔵の竣工式には、氷川神社から宮司らが出向していた。
氷川神社、三の鳥居のすぐ近く。
氷川神社を訪れた時に立ち寄りました。
子供の頃から僕は軍艦が大好きでよく模型を買います。
特に戦艦大和と空母瑞鶴が一番好きな軍艦です。
その大和の二番艦武蔵の碑が氷川神社にあったので驚きました。
2015年に作られたもの。
戦後70年が経過したため、元乗組員らが死んだ戦友のために顕彰碑を建てることを発案し、氷川神社に奉納されたそうだ。
沈没した武蔵が発見されたこともこれに拍車をかけた。
除幕式には沈没船の発見者も参列したと何かで読んだ記憶がある。
戦艦武蔵全長256メートル最大幅36.9メートル総排水量64000トン速力27ノット航続力7200海里/16ノット武装 46センチメートル砲三基九門 15.5センチメートル砲二基六門 12.7センチメートル高角砲六基十二門 25ミリ機銃130挺 13ミリ機銃4挺三菱長崎造船所で大和型戦艦の二番艦として建造され、のちに連合艦隊旗艦となった。
内装は大和よりもわずかながら上質である。
しばらくして、トラック諸島基地では旗艦として指揮をしていた武蔵は、マリアナ沖海戦で実戦にはじめて参加。
しかし、この海戦は航空機戦が中心であったため、航空母艦の護衛が主な任務であった。
武蔵が主力艦を務めたのは、最後の戦いとなったレイテ沖海戦である。
レイテ突入前、シブヤン沖海戦において米軍と交戦し、敵艦載機の猛攻にさらされ、20本の魚雷と18発の爆弾を被弾し、九時間もの間海上にその身をとどめ続けた武蔵だったが、午後7時半過ぎ、その巨体をフィリピンのシブヤン海に消し去ったのである。
氷川神社の鳥居を潜り左側に置かれている旧日本海軍の戦艦武蔵の碑。
埼玉と東京/神奈川の一部を含むかつての旧国武蔵に由来を持つ戦艦武蔵の碑は氷川神社に参拝する機会があれば必ず見ておきたいスポットであると思う。
(17/12/13)旧日本海軍 戦艦武蔵の碑です。
姉妹艦の大和の碑は奈良県天理市の大和神社にあります。
武蔵一ノ宮なので。
武蔵野国なので。
名前 |
戦艦武蔵の碑 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
048-641-0137 |
住所 |
〒330-0803 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1丁目407 |
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
平成27年に建立された大日本帝国海軍『戦艦武蔵』顕彰の石碑です。
戦艦武蔵の艦内神社にここ『氷川神社』が分祀されていたことから、この地に建立されたようです。
石碑の前で目を閉じると、四十六サンチ砲の音が聴こえてきそうです。