木の鳥居もぬくもりを感じる。
旧村社。
資料によると、当地は神流川右岸に位置し、当村には神流川に中世末期から設置されていた九郷用水の堰口があり、近郷22か村の用水として使用されていた(現在は神流川頭首工に統合されています)。
当社は新宿の村の鎮守として祀られている。
その創建は『児玉郡誌』に「永禄年間(1558-80)渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云えり」と記されている。
御嶽城は、渡瀬の北東端の御嶽山にあった南北朝期から戦国時代にかけての山城で、右の「築城」とは再築城を指すものと思われる。
とあります。
社殿の裏手をうろうろしていたら、「B-M 建設省」と刻印された標石があり、標石周囲には保護石が4個あります。
戦後、建設省により設置された標石だと思われます。
よく手入れされていて落ち着ける神社、木の鳥居もぬくもりを感じる。
由緒書きを見ると歴史は南北朝にまで遡るらしい。
手水舎、神楽殿、拝殿、本殿とあり、拝殿脇にはお稲荷さんがある。
神社は、細い道ではあるが3本辻にあり地元の人の抜け道なのか、思ってた以上に車が通る。
旧村社格。
御嶽山城主長井政実由縁。
名前 |
八幡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.1 |
青柳村大字新宿 八幡神社御祭神 誉田別尊(応神天皇)由緒新宿八幡神社は神流川右岸に位置し、武蔵と上野両国境に当たり、南に渡瀬村、対岸は上野国緑野郡保美村(現群馬県藤岡市)・浄法寺村(現群馬県鬼石町)です。
村の開初の時期は明らかではないですが、渡瀬村の新田として開かれたと伝わっています。
神流川に中世末期から設置された九郷用水の堰口があり、近郷二十二ヵ村の用水として使用されていました。
八幡神社は新宿村の鎮守として祀られ、その創建は「児玉郡誌」に「永禄年間(1558~1570)渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云へり」と記されています。
御嶽城は、渡瀬の北東端の御嶽山にあった南北朝期から戦国期にかけての山城で、児玉郡誌の「築城」の記載は再築城を指していると考えられます。
更に同書には「往昔より新宿・寄島・峯岸三耕地の総鎮守として村民厚く崇敬せり。
寛文年間(1661~1673)神主浄法寺因幡橡信重奉仕し、社殿を改築し、当時の棟札現存せり、その後社務は修験御嶽山法楽寺の兼帯せる社となる」と記されている一方、「風土記稿」には、天台宗の無量院持ちとして見え、別当に変遷のあったことが知られています。
明治初年の神仏分離により別当の無量院から離れ、社格制定に際して村社となりました。
大正四年(1915)に御大典記念として神楽殿を新築し、同十五年(1926)には本殿を境内地内で移転し、拝殿を新築しました。
(境内案内板より)由緒書板にある「青柳村」について明治二十一年(1888)に市町村制が公布され、昔からの集落の合併が行われました。
これにより、明治二十二年に、植竹、元阿保、原新田、八日市、関口、肥土、貫井、小浜、四軒在家及び熊野堂の十村が合併し「丹荘村」が誕生。
新宿、池田、二ノ宮、中新里及び新里の五村が合併し「青柳村」が誕生しました。
昭和二十八年(1953)に町村合併促進法が施行され、昭和二十九年には県の合併試案が公表されました。
それによると、丹荘、青柳、渡瀬の三村の合併が計画されていましたが、渡瀬村は合併を希望する声がほとんどなく、丹荘村と青柳村の二村が合併し、昭和二十九年に「神川村」が誕生しました。
新村名は、二村合併促進協議会で「神川村、清里村、丹青村、神流美村」の4つを選択し、村民に世論調査を実施したところ、得票の多かった神川村に決定しました。
(神川町総合政策課「神川町・神泉村合併の記録」より)