主人の祖父が深く関わった古えの地です。
山本勘助は戦国時代、甲斐(現在の山梨県)を治めていた武田信玄に仕え様々な献策を行った隻眼の軍師として有名な人物です。
山本勘助は、明治時代以降架空の人物ではないのかと言われてきました。
近年、北海道で発見された市川家文書【信玄書状】の中に【山本菅助】と云う名前が出ていた事から、実在人物と判明しました。
武田信玄を著した【甲陽軍鑑】に記されている山本勘助は、作者・小幡景憲によって過大に脚色されているのではないのかと思われ、未だ不明な事が多い人物である事は事実です。
伝承によると、富士宮市・山本の地に館を構えたのは、勘助の祖父に当たる【吉野浄雲入道貞倫】だと云われ、山本勘助生誕の地と記された石碑が有ります。
生誕地と言われる場所の一つ。
石碑があり、吉野家の屋敷が横にある。
吉野家は勘助が生まれた一族だそうです。
屋敷は現当主が住んでいるので、どこまでが観光できるのかわからないですね。
細い路地を通り抜けた所にあります。
車でも行けますが、長い時間停めることは難しいと思います。
山本勘助晴幸の本家である吉野氏の屋敷があり、生誕地とされる場所のひとつ。
父は三河牛久保城主牧野氏の下で働いていたため、母も牛久保に居たのであれば三河の、母は地元に残っていたなら駿河の生まれになるが、当時の記録がないので断定できない。
と、吉野家現当主に教えていただきました。
人の家の裏側あたりになりますので見つかりにくいと思いますので、お気をつけください。
また道幅も狭く駐車場所はございません。
勘助公の母の墓の近くではあります。
あとは…歴史を感じて見つけてくだい(´;ω;`)
主人の祖父が深く関わった古えの地です。
名前 |
山本勘助生誕地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
攻め滅ぼした相手の娘を側室として迎え入れる行為は危険を伴います。
しかし山本勘助は、諏訪家の姫(諏訪御料人)に武田信玄の子を産ませ、親戚関係になることで、諏訪衆を武田軍に心服させられると考えたのです。
この妙策は、後の諏訪支配の切り札となる武田勝頼の誕生に繋がり、武田信玄没後の武田氏の運命をも決める、山本勘助による初めての献策となりました。
戦国時代屈指の強さを誇った武田信玄の、唯一と言っても良い大失策として語り継がれているのが「戸石崩れ(砥石崩れ)」です。
1550年(天文19年)、武田信玄は信濃国(現在の長野県)北部を治めていた「村上義清」(むらかみよしきよ)の拠点「戸石城」(砥石城)に攻め込みました。
しかし、城の防御が予想以上に堅固(けんご:守りが堅く、攻められても容易には破られないこと)だったこともあり、「横田高松」(よこたたかとし)らの重臣が落命するなど大苦戦。
武田軍は、武田信玄自身が戦場の最前線で戦わなければならない窮地に追い込まれました。
この絶体絶命の危機的状況を救ったのが山本勘助でした。
武田信玄に対して「勝利する方法がひとつだけあります」と申し出た山本勘助は、「両角虎定」(もろずみとらさだ)が率いる50騎の隊を借り受けて、本陣に模した陣を形成したのです。
これを徐々に南下させたことで、武田信玄軍が息を吹き返したと勘違いした村上軍は混乱。
これに乗じた武田軍は、立て直すことができたのです。
武田二十四将のひとりであり、武田五名臣のひとりでもある山本勘助は、伝説的な軍師として広く知られていますが、築城術にも長けていました。
山本勘助の築城術は、「山本勘助入道道鬼流兵法」(やまもとかんすけにゅうどうどうきりゅうへいほう)と呼ばれ、高い防御力を第一に考えた、戦略の要塞として機能する城造りを得意としていました。
「甲州法度之次第」(こうしゅうはっとのしだい)とは、1547年(天文16年)に武田信玄が制定した、家臣団の統制や領国支配のための分国法です。
最大の特徴は、甲州法度之次第の下では主君も家臣も関係なく、平等に扱われること。
つまり定められた法律に背けば、たとえ武田信玄であっても処罰の対象になるということです。
有名な言葉としては、「喧嘩両成敗」。
長期間に亘って駿河に逗留した山本勘助が、「今川仮名目録」をもとにして軍事・行政・司法を規定した上巻、倫理・武道・兵法・礼儀作法を規定した下巻に分けて編纂した分国法であると考えられています。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。