寿桂尼さんのお墓‼️今川義元❣️お母様のお墓?
殿峰林寿桂大禅定尼の墓 / / .
今川氏7代氏親の正室である寿桂尼を開基として1565(永禄8)年に開かれた洞谷山龍雲寺には寿桂尼の墓所がある。
寿桂尼は1508(永正5)年に氏親へ嫁ぎ、7代氏親・8代氏輝・9代義元・10代氏真を妻・母・後見人として今川家を支えた。
また、権大納言中御門宣胤の娘だったため、駿府と京文化との接点を結び、今川文化を醸成した。
1560(永禄3)年5月19日、義元が尾張国桶狭間で討たれた後、徳川家康による三河奪取や引間城主飯尾氏が中心として起こした遠州錯乱により、今川氏の勢力は急速に衰えていった。
その中、寿桂尼は10代氏真(義元子)を支え、家臣団をまとめ、収拾し、今川氏を維持しようとした。
そのため、「駿河の尼御台」と呼ばれ、「女戦国大名」としての評価がある。
1568(永禄11)年3月に没し、遺言により、死後も今川氏を守護するため、今川館の鬼門(北東)にあたる龍雲寺に葬られた。
けれども、同年9月には織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。
その大インパクトが武田信玄を立ち上がらせ、同年12月に駿河侵攻し、氏親は遠州掛川城に逃亡する。
信玄の駿河侵攻と呼応し、家康も遠州へ侵攻。
武田と徳川に挟まれた上、家臣の離反も相次ぎ、追い詰められた氏親は1569(永禄12)年5月に家康と和議を結び、掛川城を明け渡した。
そして、小田原北條氏を頼って、掛川湊から駿東郡大平城へ去り、今川家は滅びた。
寿桂尼が亡くなって、1年しか経っていなかった。
寿桂尼の墓所には2基の五輪塔とその右手奥に3基の五輪塔がある。
現在、前の五輪塔が寿桂尼の墓と言われる。
しかし、1861(文久元)年に編纂された『駿河志料』には、3基の五輪塔の内の1基が「氏親室なりと云」とあり、どれが寿桂尼の墓かは定かでない。
【参考文献】静岡県日本史教育研究会(2006)『歴史散歩22 静岡県の歴史散歩』山川出 版社本多隆成,荒木敏夫,杉橋隆夫,山本義彦著(1998)『県史22 静岡県の歴史』山 川出版社。
名前 |
殿峰林寿桂大禅定尼の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
5.0 |
寿桂尼さんのお墓‼️今川義元❣️お母様のお墓🪦