国指定文化財 国宝・那須国造碑。
国宝の碑【撮影禁止】は、社務所にお願いして案内つきで拝見する形となります。
そこまでしなくても…という方は、神社自体の雰囲気や、周囲の美しい田園風景だけでも歴史は感じられると思います。
日本三古碑のひとつ。
1300年以上前に刻まれた文字が、端正に配置され、一文字ずつしっかり読み取れる。
事前に宮司さんが懇切丁寧に解説して下さるが、それだけでも拝観料500円の価値はある。
看板は地道ですが日本3古碑の一つ。
明治時代から国宝にしてされています。
今穴場なので時間のあるかたは是非。
歴史を感じました。
実物拝観は事前予約して下さいね!
日本三古碑の1つで、国宝指定なものが、こんなに身近にあり感動しました。
見た目は、知らなければ素通りしてしまう感じですが、飛鳥〜奈良時代の歴史に触れられます。
古代から大陸と繋がりある土地。
この地を治めていた御神霊に感謝できる石碑です。
関心のある方は東隣の宮司さん宅を訪ねてください。
扉を開けてくれます。
説明が素晴らしい。
自分としては、文句なしに星5つつけるけど、興味がなければただの小さめの石碑です。
教科書にも乗るような、日本で一番古く文章の価値が凄いらしいですが、興味がなければただの石ですかね。
文章の内容、字の綺麗さ、保存状態形、とても素晴らしいらしいです。
五百を支払うと説明された上での拝観になるので、しっかり話を聞きましょう。
事前に調べ、余り価値を感じない人はいかない方がいいかと。
御神体なので、撮影禁止です。
大切な碑だと思います。
大きな遺跡古墳が近にあります。
資料館等も近くにあります。
国宝にもなっていて栃木県立博物館にも模した物が展示されている碑文は楷書で掘られよく見るときれいに碑文が残っていて漢文だがわかり読めるところがある、国造碑の上に石が笠のように載っているので笠石神社のご神体として祀られている。
まず、力説しておかなければならないのは、これは日本に1千件超しかない「国宝」のひとつであるということ。
ということも、実は来るまで知らなかった。
たとえば新幹線の那須塩原駅に、看板が出ているということもない。
しかし、世界遺産に立候補しようという動きもあるそうで、いま行けば、「世界遺産のタマゴ」に出会えるのだ。
観覧にあたっては、この碑を祀る笠石神社の社務所に声をかけねばならない。
すると、大きな体を揺すって、洋服姿の60歳くらいの宮司さん(か?)が出て来られ、御朱印と記念のボールペンをくれた上で、拝観料として500円也をさらりとご請求になる。
そして、約20分お話しします、と前置きした上で、興が乗ったら40分くらい、碑文について様々な史料を紹介しつつ、詳細に説明してくれる。
と、なにやら茶化したような書き方をしてしまったが、上代の歴史、平安期の下野や那須の様子、則天武后と遣唐使と碑文の関係、渡来人たちの当地への浸透、六朝風の書体の秘密、近世における再発見(長く土中に埋もれていたのだ!)、水戸光圀公との関わりなど、腰を落ち着けて聞けば、関心のある者には大変勉強になるお話である。
当方は時間のない仕事の合間に立ち寄ってしまい、また大寒近くのごく風の冷たい日に、屋外で話を聴いたので、話を端折っていただくようにお願いしてしまったのは、大変残念かつ失礼なことであった。
ともあれ、講話のあとは、笠石神社に案内され、国宝であり御神体でもある、待望の那須国造碑の御開帳。
当然ながら写真は撮れないので画像はご紹介できないが、間近く寄って、講話の復習としてじっくり見ることができる。
いまどこの神社で御朱印を戴いても、基本的に300円であることを思えば、あれだけの話を聴けて、記念品ももらえる国宝拝観なんて、非常にお安いものと思う。
たどり着くには、かなりの苦労がいるけれども、おすすめ。
那須国造碑(なすの くにの みやつこの ひ) 水戸光圀公が創立した笠石神社の御神体として、国宝に指定されています。
高さ148cmで八溝山系の花崗岩(白御影石)でつくられています。
また、群馬県の多胡碑(711年)、宮城県の多賀城碑(762年)とともに日本三古碑とよばれています。
「碑文の大意」 碑には、一行に19文字で、八行にわたって152文字が刻まれている。
・一行~三行までの内容: 永昌元年1,(689年)4月、天武・持統天武の治世で那須国造2,を務めた追大壱那須直韋提が、評督(評の長官)に任ぜられた3,。
その後、文武天皇4年(700年)正月2日に亡くなった。
そこで、意斯麻呂等4,が那須直韋提を偲んで、次のような銘文を刻む。
5, ・四行~八行までの内容:(韋提さんが立派な人だったとほめたたえています。
) 思い返してみると、亡くなった韋提は広氏の末裔であり、国家を支えた人物であった。
一生の内に国造と評督に任ぜられるという二度の栄誉にあずかり、生涯を終えてもその業績は子孫に引き継がれた。
粉骨砕身して、必ずや韋提の業績と恩に報いなければならない。
孝行の家門に驕(オゴル)る者はなく、孔子の門弟に罵(ノノシル)る者はない。
孝を重んじる韋提の子である我々は、その格言に背くことはない。
孝で知られる堯の心(タカイココロ)を銘じ、心を澄まして父を顕彰(功績や善行などを明らかにあらわす)しょう。
孝の心ある子は、母を助けるものである。
立碑のために多くの者が集い、言葉を紡いで分碑を記す。
我々の功績は、翼はなくとも広く知れ渡り、根はなくとも強固なものになるだろう、と。
脚注:1, :「永昌」は中国の年号。
当時、朝鮮半島にあった新羅という国では中国の年号を使っていた。
⇨那須に新羅と関係の深い人がいた(日本書紀には下毛野国に帰化した新羅人が移住したという記述があります)。
2,:国造(くにのみやつこ)は、国を治める豪族。
⇨むかしは「那須」という国があった。
3,:那須国造である韋提さんが評督(那須地域の役所の長官)に任命された。
⇨国が地方の役人を決める制度だった。
4,:韋提さんのむすこと思われる「意斯麻呂」さん。
5,:韋提さんのために那須国造碑を建てました。
参考;大田原市なす風土記の丘湯津上資料館 見学資料①②より。
那須国造碑のある笠石神社、神社としては小規模でうっかりすると通り過ぎてしまう程なので★2か3、でもその貴重性を鑑み4です。
参詣時は、偶々平成最後のH31.4.30でしたが雨で、他に人はいませんでした。
「参拝の際は社務所にお知らせください」とありましたが、雨っぷりで面倒、外観だけ見てきました。
この近所の旧湯津上村にある大手損保会社運営の那須スポーツパークへ行った際に立ち寄りました。
近所にお住いのこの神社関係者にアポをとって説明を受けました。
有料のお話しを伺いながらタイムスリップ。
国指定文化財 国宝・那須国造碑。
国宝「那須国造碑」 昭和27年11月22日 指定総高 148㎝石材 花崗岩 この碑は、西暦700年頃に、那須国造であった那須値韋堤の遺徳をたたえるため、その息子と思われる意斯麻呂らによって建立された碑です。
文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石さま」として親しまれています。
碑には、八行に各十九字ずつの計百五十二文字が刻まれており、その書体には中国の六朝時代の書風が感じられます。
また、碑文冒頭には「永昌」という唐の則天武后の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に大陸や半島から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。
この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっていますす。
長い間倒れ埋もれていたこの碑を、盤城の僧(円順)が発見し、小口村梅平(現那珂川町)の明主、大金重貞に話し、それが、徳川光圀に伝えられました。
そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄四年(1691)碑堂を建て碑を安置しました。
これが、現在の笠石神社となっています。
なお、多賀城碑(宮城県)・多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。
大田原市教育委員会 立て看板参照。
日本三碑の一つ、国宝那須国造碑を御神体とする神社。
拝観も可能です。
なんと御神体が国宝那須国造碑拝観料500円を払えば、優しい宮司さんにかなり丁寧なご説明をして頂けるたった一人に対しても様々な文献や写真を一つ一つ教えて下さる誠に勿体ないばかり当の御神体は間近で観ることができる多胡碑と同じく笠を被った不思議な石碑、でもこちらはホッソリと上品で文字も繊細かつ力強い国宝がこれだけ近く見られるのは他にない因みにレプリカは複数あり、近くの大田原市なす風土記の丘湯津上資料館にもあるそちらは撮影可(宮司談)
国宝ー那須国造碑。
1300年前の碑、持統天皇の頃。
笠石神社の御神体になってます。
観るには社務所に申し込んで社殿を開けてもらう必要があります。
名前 |
那須国造碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0287-98-2501 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.1 |
けして大きくはない神社だが、歴史的価値は大社クラスに引けはとりません。
行って良かったです。