とても静かでいいところです。
勤王の志士 加藤図書のお墓があります。
この辺りは静かで良い感じの佇まいです。
加藤司書の墓所はわかり難い所に有ります。
わからない場合は寺務所で尋ねて下さい。
中入れますが、お墓以下に見るとこないし、お参りする感じもありません。
静かな佇まい。
住職さんが、立派な方でお寺に居ると心が落ちつきます。
しっとりとしたお寺の一室がセンスの良いギャラリーになっていて加藤司書公の子孫で住職の妻の喜納弘子さんが暖かく迎えてくれます。
時々ジャズのコンサートも開かれます。
とても静かでいいところです。
博多の歴史にこんな場所があったんだとビックリします。
筑前勤王党を率い、維新に大きな足跡を遺した加藤司書公のお墓がある。
また、暗殺された閔妃の霊を弔う地蔵尊がある。
場所は名刹聖福寺の南東に隣接しており、聖福寺の西側にある道路から中に入り、聖福寺の本殿をぐるっと囲む塀沿いに通る小道の南側の道を歩き、聖福寺の東側の道路にぶつかるとそこが右に曲がると正面に門があります。
加藤司書公の墓石は正門側ではなく、裏側にあります。
長州征伐において、幕府と長州の間に入り、長州を助けたり、8月18日の変で京都から落ちのびた七卿落ちの公家のうち五卿を太宰府に迎えたり日本の歴史に大きな影響を与えた誠実な人柄の人物です。
最期は乙丑の獄(いっちゅうのごく)で勤皇派が弾圧されたことで命を落としますが、最期まで抵抗したり反発することなく見事過ぎる散り際であったと伝えられています。
寺院の街巡り2日目に行きました❗古風な落ち着きあるお寺でした🙏❗
平成29年6月23日拝観聖福寺の塔頭たっちゅう寺院である。
福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあった家老加藤司書の菩提寺である。
裏手にある案内板に詳しく書かれている。
その内容を本ページの最下部にそのまま記す。
開基は、黒田藩の家臣加藤重徳(法名:節信院實翁宗是居士)にて、開山を月庭禅師という。
重徳は黒田孝高(官兵衛)に従い九州へ下り、その後代々黒田家の重臣として仕える。
住職の話によれば、重徳の子(一成)は、黒田家の養子となり黒田一成と名乗り、 黒田二十四騎の一人として活躍した。
また、「皇御国の武士はいかなる事をか勤むべき」の筑前今様の作者で知られる勤皇家の加藤司書は、 佐幕派によって切腹を命じられ自刃、当寺に埋葬された。
切腹当時の血染めの衣類 が当寺に残っていたが、戦災にて焼失した。
寺内には、加藤家の菩提寺として一族の墓がある。
聖福寺の裏手にひっそりと伽藍を構えている。
平成29年6月23日拝観聖福寺の塔頭たっちゅう寺院である。
福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあった家老加藤司書の菩提寺である。
裏手にある案内板に詳しく書かれている。
その内容を本ページの最下部にそのまま記す。
開基は、黒田藩の家臣加藤重徳(法名:節信院實翁宗是居士)にて、開山を月庭禅師という。
重徳は黒田孝高(官兵衛)に従い九州へ下り、その後代々黒田家の重臣として仕える。
住職の話によれば、重徳の子(一成)は、黒田家の養子となり黒田一成と名乗り、 黒田二十四騎の一人として活躍した。
また、「皇御国の武士はいかなる事をか勤むべき」の筑前今様の作者で知られる勤皇家の加藤司書は、 佐幕派によって切腹を命じられ自刃、当寺に埋葬された。
切腹当時の血染めの衣類 が当寺に残っていたが、戦災にて焼失した。
寺内には、加藤家の菩提寺として一族の墓がある。
聖福寺の裏手にひっそりと伽藍を構えている。
名前 |
節信院 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
092-281-4182 |
住所 |
|
評価 |
4.2 |
博多旧市街には歴史ある神社仏閣が多くあります。
ここは初めてでしたが見て歩くだけで心が落ち着きます。