名前 |
鹿島神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=75996 |
評価 |
3.3 |
葛生鹿島神社御祭神 武甕槌命境内社 八坂神社 八幡神社 木市大神 菅原大神由緒延暦八年(789)創建の古社です。
社伝では、桓武天皇の御宇延曆八年(789)四月朔日、坂上田村麿が奥夷征伐の際、天下太平祈願のために山本里(當時葛生)の北山奥に建立し、鹿島太神と稱したと云われています。
創建より靈現殊に著しかったため、後に葛生以北梅澤以北山中の十八ヶ村崇祀の鎭守となっています。
治承元年(1177)の夏、霖雨の末に疾風雷鳴劇しく起り、石を飛はし枝を折り、其勢いは凄まじく天地爲めに震え、河海爲めに溢れ、山崩れ、谷嘯き、家屋の破損人畜の死傷枚擧するに遑あらず、實に空前絶後の大洪水となり、是時鹿島の神殿も此れがために流出し、凡そ四丁程隔たった處に止まりました。
するとその傍らの岩窟から大蛇が抜け出したと言い伝えられ、今も其神殿の流れとまりし處を宮澤と稱し、且つ大蛇の抜穴をも存せりと云われています。
鳥居の處に老杉二株あり注連曳杉と云われ、毎歳祭禮の時、注連を是の杉に張って祭ることから此の名が付いたと云われています。
文治年間(1185~1190)右大將賴朝が覇府を鎌倉に建したとき、十八ヶ村が神靈を各地に分祀することとなったときも、當社のみは衆庶の信仰が衰えず、其威徳卒いて各村にまでも及ぼしていました。
弘長年間(1261~1264)南家藤原右大稱良定二十一代の裔次郎太夫吉政なる者が此地に來り、一村落を開らき自ら神主となりました。
その大祖吉政より明治年間榮次に至るまで、二十八代代々本社に奉祀しています。
當神社は中古佐野家の崇敬する處となり、高六十三石の神領を奉ぜられ、徳川政府の頃は常に時の領主に欽仰されました。
明治五年(1872)の改正に際し、葛生町の中央字泉町の西に新たに社殿を營み、鹿島神社と改稱して村社に定められました。
(「下野神社沿革誌」参照)明治八年(1875)幣殿・拝殿を新築しました。
明治十七年(1884)花崗岩鳥居奉納。
昭和四十六年(1971)本殿を改築しています。