駐車場が大変 軽トラ専用?
鎌倉時代から戦国時代の城跡で、古河公方足利氏が3年間執権を行っていたとのことです。
歴史のある城址なんですねぇ!本丸、二の丸、切り落し、袖摺坂等分かり安く案内塔があり良かったです。
本丸:中心の建物、城。
二の丸:本丸の次の建物、姫や家族の住居。
切り落し:山を削って、登りづらく急勾配にする。
袖摺坂(そですりざか):裏虎口(うらこぐち)とも言われ、狭い坂を作り敵が攻めづらくする。
虎口は入口のことで、本丸虎口は本丸の入口、坂虎口(鎧坂)は坂の入口に敵が侵入したら、横や上から攻撃出来るように作る。
他に敵の侵入や攻撃を攻めづらくする、土塁(城の回りに土を盛る)や空掘(深く掘って侵入を防止)や腰曲輪(こしぐるわ は攻撃に備え、山の中間に武士がいて、敵の侵入を防ぐ)など工夫していた。
ボランティアさん達が手入れをしていてとてもきれいな場所です。
コンパクトだが土塁、堀、主郭以下複数の曲輪、腰曲輪など残っており、整備されている。
有志の方々のご尽力に感謝。
隣接する家畜舎も城域か?車では坂を登り城跡に所在するお寺の駐車場に停めると便利。
電車なら物井駅から京成佐倉駅間のバスで山王地区で下車し徒歩20〜30分ほど。
古い城跡です。
古代のロマンに浸りたいひと、どうぞ。
行くまでが、かなり急勾配です。
ちょっとした運動にも良いかも知れません。
千葉氏が本佐倉城に移ったとされる15世紀後半から16世紀後半にかけては、陸路の入り口のひとつとして押さえの城であったとされ、16世紀後半になると、臼井城や岩富城をつなぐ支城だったと云われています。
享徳3(1454)年に享徳の乱が勃発、文明3(1471)年、足利成氏の古河城・古河御所が長尾景信(景仲の子/長尾景春の父)により陥落し、足利成氏は小山氏・結城氏の軍勢を率いて伊豆の堀越公方を攻めましたが敗退となり、本佐倉城の千葉孝胤のもとに退避しました。
足利成氏は千葉氏を頼ってこの小篠塚城に動座したとされ、明応6(1497)年、足利成氏が没すると足利政氏が2代目古河公方を就任しましたが、千葉氏は内紛により分裂となり、古河公方を支持しない武蔵千葉氏を攻めるため、文亀2(1502)年から永正元(1504)年まで足利政氏とその長男・高基が小篠塚城に動座したとされます。
文献には、永正元(1504)年までのことが記されていますが、16世紀後半の遺構が見られることから天文19(1550)年ごろまでは動座の城として機能したと推定されます。
『小篠塚城跡』は、正慧寺境内にあり、佐倉市の文化財(史跡)に指定されています。
急勾配の坂を上った右側に駐車場ありますが、低車高のクルマは帰り道のフロントバンパー下の擦りに要注意です。
駐車場が大変 軽トラ専用?
新発見です、このような所に城跡あったとは驚いてます、城跡迄の登り坂は急で疲れますが、漸く登りきった所にお寺も有りました。
説明文によると平安時代からの様ですね、本丸跡や神社もあり、そして袖摺坂等といった洒落た細い坂道も有りました。
行ってみる価値はあります。
断念しましたお寺の入り口の案内板で示す駐車場は、あまりに幅がせまい田んぼ道、見通しがきかない道を進んでいく勇気が出ませんでした。
お寺への登りの道も、あまりに急すぎて、こちらも勇気が出ませんでした。
ちょっと離れても、平地に停められると良いと思います。
お寺への急な坂道をアップいたします。
麓の安養院さんに停められると良いと思いますがどうなんでしょう。
石碑に場所などの名前が書かれていて、わかりやすい空堀ウォークでもできて、城の歴史などの看板もあり、駐車場まで行く道が狭いのと近道と書かれてる道から行くと大木が倒れているので注意して登った方がよさそうです。
名前 |
小篠塚城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
千葉県佐倉市の小篠塚城跡の近くの谷津田の夏と冬の写真です。
蓮根畑となっていますが里山からの湧水で夏でも水が枯れることはありません。
この谷津田が大きな河川の無い房総の農業生産を支えているとのことです。
鎌倉幕府成立時に上総広常は2万の大軍を率いて頼朝軍に参陣し、頼朝軍と平家軍の力関係を逆転させましたが、その大軍を支えたのは、谷津田での農業生産と里山での馬の生産であったと思います。