この堂山に延命地蔵堂の建立を発願。
はっきりした資料の無い石塔群、平家追悼、山鹿水軍供養等の説があるらしいです。
隣の神社と同じく小さな場所です。
小倉駅からレンタカー35分前後芦屋橋から海岸行止り駐車場トイレ有り蛭子宮鳥居の向って右側説明板お地蔵さんのある石段登りお堂と石塔保存してある網の張られた建物あります少し離れた所に山鹿秀遠公の居城だった山鹿城阯あり手前の五輪塔は立派で埋もれていたせいか角の崩れもなく平家一門を弔った物?奥の方はクリスマスツリー🎄の略図の様な石板が大量にあり山鹿水軍の人々供養?1185年2月1日近くの芦屋浦の合戦で覇権争いで対立していた岩門今の博多南駅辺の豪族原田種直公が敗れ弟まで討死2月18日屋島の戦い、からの残存兵力と合流するも続々と特に本州側の豪族は掌返し戦備も整わない中3月24日旧暦現在は4月壇ノ浦の戦い、数の上でも劣勢で平家物語で1000:3000吾妻鏡で500:800更に山鹿水軍先陣300松浦党100平家一門100で松浦党は内応済頃合を見て離脱最初は山鹿水軍の激しい矢雨で優勢だったものの矢種が尽き射られるままとなり船員も犠牲になったとか今は源義経公の水夫舵取を狙えという戦術で逆転したという説は薄れており関ヶ原の西軍の様に良い所なく敗戦の説も戦前の尊王派の中では賞賛され城跡には石碑も建ってますが源氏に味方した緒方惟栄公も院宣に従った訳で安徳天皇は廃帝だったのですが自分自身旭川の様にイジメも見て見ぬ振りだったのにこんな教養書いて何いってんだですがコロナ休みの合間。
明治30年(1897)ごろ柏原浦に住む佐野屋の老女が、この堂山に延命地蔵堂の建立を発願。
その工事中、地下から高さ50~60㎝の一石五輪塔、五輪塔、板碑、石仏など三百数十基が出土した。
材質は主として石灰石。
壇の浦の合戦後、平家一門の追悼のため落人たちがひそかに祀ったという説。
また山鹿兵頭次秀遠の部下として多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が供養のため造立したとする説などがある。
海の守り神が鎮座する場所です。
源平合戦の平家の漕ぎ手をした人達を祀ってるそうです❗地域の人が定期的に清掃していました✋
明治30年(1897)ごろ柏原浦に住む佐野屋の老女が、この堂山に延命地蔵堂の建立を発願。
その工事中、地下から高さ50~60㎝の一石五輪塔、五輪塔、板碑、石仏など三百数十基が出土した。
材質は主として石灰石。
壇の浦の合戦後、平家一門の追悼のため落人たちがひそかに祀ったという説。
また山鹿兵頭次秀遠の部下として多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が供養のため造立したとする説などがある。
昭和62年1月 芦屋町教育委員会。
名前 |
堂山の石塔群 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
なかなかのロケーションですよー(◠‿◕)