赤間関で最も由緒ある家柄の大庄屋でした。
ここが跡地なんですね出来れば図に現在地があると邸宅の大きさ想像できると思うけどな~
坂本龍馬がお竜さんと過ごした場所。
龍馬と懇意にしていた伊藤家から借りた自然堂、伊藤邸跡。
今は何も無い駐車場、色々と寂しく感じる場所。
たまたまみつけた龍馬とお龍ゆかりの地。
看板と井戸のみ残っています。
同時に、坂本龍馬と彼の妻ドラゴンの関連する歴史的記録があります。
(原文)同時這裡也有坂本龍馬跟他老婆龍的相關史蹟。
厳かな雰囲気のある建物。
伊藤家は鎌倉時代初期に京都から下って来た国司代理(代目)で、赤間関で最も由緒ある家柄の大庄屋でした。
長府に鎌倉幕府の守護又は守護代が滞在し、ここに国司代理(代目)か居たとすれば、建前上、守護より国司の方が格上であるから、ここが本来の長門国府と言えます。
伊藤家は鎌倉時代初期に京都から下って来た国司代理(代目)で、赤間関で最も由緒ある家柄の大庄屋でした。
長府に鎌倉幕府の守護又は守護代が滞在し、ここに国司代理(代目)か居たとすれば、建前上、守護より国司の方が格上であるから、ここが本来の長門国府と言えます。
ここは坂本龍馬にとって非常に縁の深い場所である。
龍馬は生涯を通じて下関を何度も訪れており、当時の伊藤家の当主助太夫と親交があったので伊藤家に滞在することが多かった。
その後、妻お龍を伴い伊藤家に寄宿するようになり、龍馬は寄宿していた部屋を自然堂と名づけ下関での本拠地とした。
その後、龍馬は近江屋で暗殺されるが、お龍がその知らせを受け取ったのがこの自然堂である。
自然堂跡 (龍馬とおりょうが二人で過ごした一室) 慶応3年(1867年)2月10日、龍馬は、長崎からおりょうさんを連れて下関に来ています。
伊藤家の一室を借り、そこを「自然堂(じねんどう)」と呼んでいます。
その部屋が夫婦の生活の場となっていました。
龍馬は、同月27日頃から病気になり、2ヶ月ほど自然堂で過ごしています。
夜、巌流島に渡り、花火を上げて周りの人々を驚かして遊んだ、というおりょうさんの後日談があります。
また、その頃の巌流島は桜が綺麗だったらしく、桜を見に巌流島に渡ったとの話もあります。
花火と桜見が同じ日かどうかは、私には分かりません。
とにかく、この2ヶ月間ほどの2人の生活は楽しかったようです。
さらに、その頃、龍馬は遊郭がある稲荷町で遊び朝帰りをし、夫婦喧嘩をした話も残っています。
その後、また、龍馬は忙しく飛び回っていましたが、同年の9月20日、久し振りに自然堂に帰ってきています。
2日後の22日、下関を出帆して土佐へ向かっています。
これがおりょうさんとの今生の別れになります。
その年11月15日、龍馬は京都三条河原町の近江屋の2階で、幕府見廻組(佐々木只三郎)数名に襲撃され凶刃に倒れています(享年33歳)。
下関へ訃報が届けられたのは半月後の12月2日になっています。
三吉慎蔵からおりょうさんに伝えられたのですが、三吉慎蔵ら周りの方々は、おりょうさんになかなか伝えられなかった。
伝えられたのは、一週間ほど後だったそうです。
しかし、おりょうさんは、うすうす感づいていた、とおりょうさんの回顧談にあります。
おりょうさんの回顧談によれば、「9日目に三吉(慎蔵)さんや(伊藤)助太夫やも寄り合って、あらためて法事を営みましたが、私は泣いては恥ずかしいと堪え堪えしていましたが、とうとう堪え切れなくなって、鋏はさみでもって頭の髪をふっつりと切り取って龍馬の霊前へ供えるやいなや、覚えずワッと泣き伏しました。
」とあります。
おりょうさんは、その後しばらく自然堂で過ごしていますが、ここから歩いて桜山招魂場に通っています。
しかし、この自然堂跡には、何も無く、ただ広々とした駐車場があるだけです。
名前 |
本陣 伊藤邸跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.9 |
赤間神宮の少し手前にあり、ひっそりした場所にありました。
事前に調べておかないと、見落としがちです。
本陣伊藤邸跡は、伊藤家は藩政時代に赤間関の大年寄(おおどしより)を世襲し、本陣を兼ねていました。
参勤交代の大名の他、江戸へ向かうカピタン(オランダ商館長)の一行や朝鮮通信使も宿泊し、彼らと地元住民らの交流も伝えられています。
幕末には、下関を訪問した坂本龍馬がしばしば宿泊して、長州藩士の印藤のぶる(いんどう)のちの豊永長吉(とよながちょうきち)らを通じて長州との接近をはかった場所だそうです。