平安時代(9世紀後半)の国司館が連絡道路と直交する...
筑後国府は、第Ⅰ期(7世紀中頃)~第Ⅳ期(11世紀後半)までの4回にわたり国庁が移転されましたが、そのすべての遺構は発掘調査により確認され、国の史跡に指定されています。
この場所はそのうちの第Ⅱ期の場所にあたりますが、代表して大きな石碑と案内板がありました。
石碑と由緒を記した看板があります。
筑後国の中心地として、約500年に渡って存続したそうです。
大宝律令の編纂に関わった、道君首名(みちのきみのおびとな)さんは、713年に筑後守に任命され、善政により人々に慕われ、病死すると神として祀られました。
首名さんより数代後の筑後守、葛井連大成( ふじいのむろじのおおなり)さんは、筑紫万葉歌壇の歌人として名を残しているそうです。
シンプルな石碑 モンスターボールが貰えます。
2期国庁とは東西の連絡道路を隔てた南東側、平安時代(9世紀後半)の国司館が連絡道路と直交する南北道路に沿って数区画並びます。
国司館とは、中央から赴任してくる長官以下が住まう官舎のことです。
中でも連絡道路に面した最も大きい国の区画は、平面プランは台形ですが、南北長95〜124m、東西75〜85mを測る広大なもので、平面規模は筑後国の国庁を凌ぎます。
内部からは文書行政には欠かせない大量の硯類の他、輸入陶磁器、国産陶磁器の食器が大量に出てきます。
このことから、国司館は行政の場であると同時に、様々な社交饗宴の場であったことが推察できます。
なお、この国司館が造られた頃の著名な長官に、都朝臣御酉(みやこのあほんみとり)という人物がいます。
彼はかつての班田収授を復活させようとしたために、私服を肥やす部下たちの反感を買い、元慶7年(883)館で暗殺されます。
生真面目な長官だったようですか、既得権益は打破できなかったのです。
名前 |
筑後国府跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.1 |
建物などはなく一面の畑。
案内板がなければわからない。