脇に新たに設置された解説文がわかり易い。
滝廉太郎居住地跡の碑 / / .
千代田区一番町にあります。
「荒城の月」「花」等の日本の歌曲の創始者としてお馴染みの滝廉太郎が明治27'〜34年まで一番町に住んでいましたそのレリーフがここに設置されています建物等は今はありません。
「荒城の月」など日本の音楽史に残る多くの名曲を作曲し、人々に親しまれている作曲家 滝廉太郎さんが明治27年から34年にかけて住んでいた場所。
碑が立つ交差点から西に100メートル程の所(1番町6番地ライオンズマンション1番町第二)に、 明治二十七年ごろから三十四年四月まで居住していました。
名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など作品の多くはそこで作ら れました。
滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを忍び、毎年九月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を忍ぶ会」が この場所で開催されています。
案内板等がある。
音楽室で見たあの写真が銅板に張り付いている。
顕彰碑に刻まれた楽譜は「荒城の月」だが、彫りが浅く、大変読みにくい。
音楽家として有名な滝廉太郎の旧居跡です。
ただ旧居跡といっても実際に滝廉太郎が住んでいたのは、この旧居跡がある交差点から100m離れた場所であると看板に記載されていました。
碑などが建っており、説明板には下のように書かれてました。
滝廉太郎 は、この交差点から西に100メートル程の所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治二十七(1894)年ごろから三十四(1901)年四月まで居住していました。
今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
滝廉太郎は明治十二(1879)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同二十七年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。
優秀な成績で卒業した後は、母校の助教受として後進の指導にあたりました。
明治三十四年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。
しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同三十六(19.3)年六月二十九日死去しました。
日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。
滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年九月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。
「荒城の月」「箱根八里」春のうららの隅田川の「花」などを作曲した名作曲家である滝廉太郎が23歳で逝去しますが彼が精力的に作曲に勤しんでいた時に住んでいた居住地跡に建てられた碑です。
現在はマンションが建っており、角地に碑が建立されるのみになっています。
名前 |
滝廉太郎居住地跡の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
碑そのものは経年変化で読みにくくなっているが、脇に新たに設置された解説文がわかり易い。
袖擦坂から碑を左に見て左折すると急勾配の坂道になる。
♪箱根の山は天下の剣・・‥と思わず口ずさみたくなる。