歴史的な建造物の基礎を、見せます。
万世橋駅舎基礎(地下遺構サークル) / / .
万世橋旧ホーム入り口から少し離れた場所の路面に丸くガラス張りになっている場所があり、覗き込むと旧万世橋駅舎の基礎を見ることができます。
ガラス張りになっている場所があり、下の遺構を覗くことができた。
近くに「万世橋と神田祭り」という説明板があり、下のように書かれていた。
外神田にある神田明神は、平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来芝崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。
江戸時代の神田祭は、山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。
山王祭と神田祭は、隔年で執行され、各町が自前で山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くもので、祭礼番付と呼ばれるパンフレットが毎年作られるなど、名所化されていった。
神田祭は、9月15日に庶民の祭礼として執り行われ、雉子町の町名主である斎藤月岑(げっしん)が著した「江戸名所絵図」や「東都歳時記」によれば、贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷(きじき)を造って見物したとある。
明治時代の「新撰江戸名所図会」によれば、明治12年の神田祭は、40余りの山車が八辻(筋違八小路・すじかいやつこうじ)に集合し、万世橋を渡り、聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向かったとある。
電線の設置など都市の近代化によって、明治期後半以降山車行列が難しくなり、巡行が少なくなっていく。
明治の中頃、立川と新宿間に甲武鉄道が開通、明治45年に神田方面に伸び開業したのが万世橋駅。
当初は中央線の終点だった。
神田須田町周辺は多いににぎわう。
大正8年に東京駅まで伸び、当駅は中間駅となる。
関東大震災で駅舎が焼失、小さく再建。
昭和18年に乗降客減少で営業休止した。
マーチエキュートのLIBRARYに往時の駅舎模型があります。
タイムスリップしたかのような不思議な感覚です。
地面がガラス張りになっており、煉瓦を見ることができる。
歴史的な建造物の基礎を、見せます。
なかなか興味深い。
It's is unfortunate that we no longer have the great Mansei station building. They have done a decent job still keeping the brick foundation, renovating the shopping area, and trying to share some of its history via displays.
明治の中頃、立川と新宿間に甲武鉄道が開通、明治45年に神田方面に伸び開業したのが万世橋駅。
当初は中央線の終点だった。
神田須田町周辺は多いににぎわう。
大正8年に東京駅まで伸び、当駅は中間駅となる。
関東大震災で駅舎が焼失、小さく再建。
昭和18年に乗降客減少で営業休止した。
マーチエキュートのLIBRARYに往時の駅舎模型があります。
名前 |
万世橋駅舎基礎(地下遺構サークル) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.1 |
歴史の欠片を見れる貴重な場所だと感じました。