あまり注目されていないのが寂しい。
川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 / / .
いつのまにか出来ていた「川柳」の記念碑。
その川柳の句集『誹風柳多留』第1編が明和2年(1765年)にここで刊行されたとか。
編者の呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の句「羽のあるいいわけほどは あひる飛ぶ」が金のあひるの像の下に記されており、確かにくすくす笑いを誘ってやまない。
あひると言えば『本朝食鑑』(元禄10年:1697年)といったその一昔前でも鶩(あひる)はありふれた家禽であったようであるが「泥臭くて食べる人は少ない」とあり、長崎だろうかわざわざ華客(中国人)のあひるの食べ方を紹介している。
そのおかげか、グルメな旅行漢詩人である柏木如亭の『詩本草』(文政5年:1822年)の頃になると「江戸の(鰻の)蒲焼、京の鶩(あひる)」と紹介しており、特に鶩の茶碗蒸しは絶品だったらしい。
とはいえ、今は鶩の茶碗蒸しとは聞かないが、川柳はサラリーマン川柳など今なお盛んなのは頼もしい限りである。
1765年(明和2年)7月、この付近で柄井川柳さんと呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)さんが句集「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」の第1編の発行をしました。
以後毎年のように刊行され、1840年(天保11年)まで続き、計167編が刊行されました。
この記念碑には呉陵軒可有さんが読んだ「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」が刻まれていました。
−−−−−−−−−−飛ぶこととは縁のなさそうなアヒルだって、羽を持っているのだから、言い訳ほどだけど少しは飛ぶことはできるのだよ。
京成上野駅入口横にあります。
「誹風柳多留」の版元がこの付近になったのですね。
この地がまだまだ優雅で流麗な感じの時期だったのですね。
それから上野戦争、大戦の帰還兵やアメ横の闇市、知らないけどとてもその当時に自分が生き残っていると想像できるものではないですね。
上野にくるとそんな近い過去に思いを馳せることがあります。
最近出来た碑と思いますが川柳の碑が出来てました。
分かりにくい場所ですね。
上野公園の階段登り口にある文芸川柳の発祥の地であり「排風柳多留」の版元があった場所に記念して設立した碑🌿🌿🌿碑には上野山下桜木連の中心作者でありその文芸を切り開いた江戸時代中期の川柳作者・呉陵軒可有氏の代表的な川柳が刻まれていてその川柳からインスパイアされた黄色のカモちゃんの銅像が可愛らしい🦆
京成上野駅の入り口に川柳発祥のモニュメントがありました。
これだから、東京は面白い!
黄金の鴨像が設置されている。
『誹風柳多留』は、江戸中期に柄井川柳(からい・せんりゅう、1718‐90)が、一般から投句された「前句付」を採点し、良作を集めて順次刊行していったものですが(厳密にはいろいろあるけど省略)、上野が発祥の地とは知りませんでした。
川柳は「庶民文芸」と捉えられることもありますが、実際は豊かな教養を背景に、大名まで含む知識人が詠んだ作も多数あると見られますので、もっと山の手や日本橋あたりで刊行されていたのかと勝手に思っておりました。
というような思い込みを正してくれる碑文。
建てられたのは「川柳250年」にあたる2015年と新しいので、まだ綺麗。
俳風柳多留は、川柳の句集のこと。
今から250年程前の1765年(明和2年)から1840年(天保11年)までのおよそ80年の間刊行され続けた。
当地には、その版元があったんだとか。
この記念碑は川柳誕生から250年を記念して2015年8月20日に除幕されたもので、比較的新しい。
「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」と浮き彫りされた樽(おそらく柳性)の上に金色のあひるが乗っている。
なお、「多留」は江戸時代に使われていたヒラガナ(変体仮名)。
結構いい場所にはあるのですが、あまり注目されていないのが寂しい。
階段の上り口にあり、目立ちます。
京成上野駅の横にひっそりとあります。
名前 |
川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
京成上野からの乗り換え時、目に留まりました。
金色のあひる🦆、なんだか可愛かったなあ(*'-'*)!