中目黒と代官山をつなぐ緑の散歩道。
静かに座れる場所がある。
テイクアウトした物を飲食するのに丁度良い場所。
休日は中目黒、代官山へ向かう人もチラホラいますが、平日の朝夜は人通り少なく静かな坂道です。
中目黒方面から登ると、右手に新しくできた東京音大のキャンパスがあり、夜は綺麗な建物とライトアップがいい雰囲気です。
坂を登りきったところには旧朝倉家住宅の門があり、建物内と回遊式庭園を見学することができます。
また、途中には左手に大きめの廃墟がありますが、ブルネイ王族がプール付き豪邸を建てようとしたところ、資金源である「原油価格の低下」と「傾斜地における建設費用の高さ」で計画が頓挫したため廃墟化したらしいです。
■引用:目黒区HP”明治10年ごろまで、この坂上で伊藤與右ヱ門という者が、石臼の目を切る仕事をしていたということで、「目切坂」と呼ばれたそうな。
また、この坂は、昔、鎌倉街道の中途にある昼なお暗い林の中を通っていた。
そんなことから別名を「くらやみ坂」または「しめ切坂」などとも呼ばれていた。
”ですが、今はそんなに風情があるという坂でもないです。
旧鎌倉街道の坂。
暗闇坂の別名がありますが、現在はその雰囲気はまったくありません。
中目黒駅 西口から徒歩で5分程度で着く。
石臼の目切り名人である石工の伊藤与右衛門が住んでいたことからこの名がついたという。
「いざ鎌倉へ」で有名な旧鎌倉街道でもある。
静かないい坂です。
本当に都内は坂が多い。
中目黒と代官山をつなぐ緑の散歩道。
ゆるふわ気分で歩きましょう🎵
旧山手通りの代官山交番前交差点から南西に入ると、緑陰の中を西へやや蛇行しながら下る目切り坂があります。
目黒区青葉台一丁目と目黒一丁目の境界で、北西側の上村坂と南側の新道坂しんどうさか(駒沢通り)の中間に位置します。
目切り坂下に目黒区教育委員会設置による木製の角柱が立っています。
この角柱のすぐ脇に「めぐろ風景、目黒区みどりの散歩道、目切坂と旧鎌倉街道」と題された案内板があります。
江戸時代、近くに石臼の目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前がついたと説明されています。
石は目と呼ばれる部分に刃物を当てて打つと容易に割れることから、目切りと呼ばれました。
更にこの道は鎌倉幕府を開いた源頼朝が、鎌倉で変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにと作った鎌倉街道の1つで「いざ鎌倉へ」と鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ、と説明されています。
目切り坂上には目黒区教育委員会設置の「目黒元富士跡」の標識と「富士信仰と元富士」の案内板があり、その後方にあるキングホームズ代官山の場所には、江戸時代に小型の富士「元富士」が築かれていました。
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講を作りました。
富士講の人々は身近なところに富士山に似せた小型の山を築き、山頂に小さな石のほこらを設けました。
キングホームズ代官山の敷地にあった「元富士」は1812年に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さが12mありました。
その後1819年に新道坂(駒沢通り)の更に南東側の別所坂上に新しく富士が築かれ、それを「新富士」と呼ぶようになり、こちらの富士は「元富士」と呼ばれるようになりました。
「元富士」は1878年に取りこわされ、石祠は1943年目黒区大橋の上目黒氷川神社に移されました。
かつて別所坂の頂上付近には、江戸時代の北方探検で知られる近藤重蔵の別宅がありました。
彼は富士講の人々の手を借りて邸内に富士山を模した山「新富士」を築ぎました。
この築山は安藤広重の「名所江戸百景」にも「目黒新富士」として描かれています。
但し現在の別所坂から富士山は見えません。
中目黒台地は江戸幕府の砲薬製造所、明治政府の火薬製造所、昭和に入っての海軍技術研究所を経て、現在は防衛省艦艇装備研究所となっています。
東京共済病院もかつての海軍共済組合病院でした。
名前 |
目切坂 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/saka/hokubu/mekiri.html |
評価 |
4.1 |
坂を登り切ったら代官山の交差点です。