『平忠度』は平家一門の武将。
怖い、迷路、迷走。
■平忠度腕塚神戸長田に在る石碑。腕塚堂の中に位牌と共に祀られている。堂内は畳敷。普段施錠中。十三重石塔、百度石、手水石などが有り神社の体を成す。●平忠度(たいらのただのり)は清盛の26歳下の異母兄弟。享年41。一ノ谷で討たれた際は「文武に優れた人物と」と敵味方に惜しまれたと言う。此処のお堂は車道からは見えない。進入口は狭く自転車は降りて、徒歩が善い。此処から西300m辺りに「平忠度胴塚」が在る。明石には「平忠度塚」が在る。
ちょっと分かりにくい所にありましたね❗随分以前に訪れてはいますが場所はほとんど覚えていませんでした。
たどり着いた時は感動です‼️地域の方に守られて存続しているのですね😃ありがとうございます❤️
住宅街の中にあって、見つけづらい場所。
武人としても歌人としての有名な、平忠度が合戦時に切られた腕を埋めたとされる場所。
周辺は綺麗にされている。
すごく狭い路地に入っていかねばならず、しかも入り組んだ場所にあります。
見つけられて感動しました。
地元の人に愛されてます 海側に進むと水産会社に進入します。
平清盛の腹違いの弟である平忠度の腕塚だ 近所の人達で花やお茶を供えお祀りしてます 近くには胴を祀った胴塚もある。
少し分かりにくい場所です。
腕をお祀りしてるのに、この物々しさ、圧倒されます。
平清盛の末弟の薩摩守忠度は、豪勇で知られ、歌道でも有名で歌集もある文武に秀でた武将です。
この十三重塔はこの忠度を祀る石塔と伝えられています。
一の谷合戦の際、西門一の谷を守り、土肥実平(どひさねひら)軍をよく防ぎましたが、敗れて逃げる途中、岡部六弥太忠澄(ただずみ)と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に後ろから右腕を切り落とされ、ついに静かに念仏して忠澄に討たれました。
ここから東に約300メートル離れた野田町8丁目には、平成14年度に地域文化財に認定された、平忠度胴塚があります。
名前 |
平忠度腕塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
『平忠度』は平家一門の武将。
『平清盛』の異母弟で紀伊熊野で生まれ育ったと伝えられています。
忠度は歌人として優れているだけでなく、平家一門の中でも武術にも優れていたそうです。
各地で源氏が挙兵すると『源頼朝』との【富士川の戦い】、『源義仲』との【倶利伽羅谷の戦い】等に出陣します。
寿永3(1184)年の【一ノ谷の戦い】では一ノ谷の西側の大将として明石近くに布陣します。
源氏方の『土肥実平』勢との交戦で敗色濃厚となり、『忠度』は沖合いの舟を目指して明石方面へと退却しますが、途中で源氏方の『岡部六弥太忠純』の部隊と遭遇します。
『忠度』は源氏方だと偽って遣り過ごそうとしますが、見破られてお互いに馬上で組討ちとなります。
この状況を見た『忠度の従者達』は一人残らず逃げ去ってしまいます。
組討ちでは『忠度』の力が勝り『忠純』を馬から引きずり落とし、ねじ伏せて首を切ろうとしたその時、『忠純の郎党』が駆け寄り『忠度』の右腕を肘から切り落とします。
剛勇な『忠度』も利き腕を失い、“もはやこれまで”と覚悟を決め、左腕一本で『忠純』を投げると極楽浄土が有るとされている西方を向き念仏を唱えます。
その念仏が終わるやいなや『忠純』に首を刎ねられてしまいます。
箙(えびら/矢を携行する為の武具)に結ばれた文の和歌から討ち取った相手が『忠度』と知った『忠純』は「薩摩守忠度を討ち取ったり」と大声を上げます。
その声を聞き、平家方のみならず源氏方の人々までも文武に優れた忠度の死を惜しんだと言われています。
この【腕塚】と同じ長田区の野田町に【胴塚】が有ります。
また、『忠度』が討たれた場所と伝えられている明石市天文町には【腕塚神社】と【忠度塚】が、『忠度』を討ち取った『忠純』の故郷である埼玉県深谷市には【平忠度供養塔】が有ります。
この様に多数の供養塚が各地に有り、それぞれに地元の方々を中心に大切に保存され、供養が今もなお続けられているのは、歌道と武道、文武両道に優れた『平忠度』の人物故にだと思われます。